自覚的フィルターとアルゴリズムによるフィルターの違い
山本:ここから、長谷川さんがおっしゃった、情報をコントロールする側の企業としての行動規範と責任について話していきましょう。まず、フィルターバブルの善悪についてです。ネットは広く情報を届けるメディアだと解釈すると、もちろんフィルターはそれを狭めていくため悪いものと判断できます。その逆に、ネットは情報を深く狭く掘り下げていくものなんだという解釈もあります。ゲンロンの東浩紀さんは、メディアはそもそも勘違いされていて、広く届けるのではなく、狭く深く掘り下げていくものなんだという言い方をしていたんですね。このような考え方をすると、フィルターバブルにはいい側面もあると考えられます。そのため、基本的には受け手側がどう解釈して情報を広げていくかが重要になってきます。私たちはプロフェッショナルであり、フィルターバブルの問題も理解しているから、あえて自ら違う情報を取りに行くとか、ネットだけじゃなく図書館や本屋に行くといった行動ができますが、そうではない人が大多数です。ふつうにネットの情報をみて、ふつうに過ごしている方々が、今後情報とどう関わっていけばいいか。そういう方々の情報リテラシーについて考えたいと思います。
松浦:フィルターバブルはあるかどうかの観点からすると、ゼロイチではないですね。ゼロイチで考えてしまうと、フィルターバブルでもなんでも悪だろうが善だろうがという話になってしまい、その時点で議論が止まってしまうと思います。もちろん、フィルターバブルにより自分の好きな情報が山のように入ってくるのは非常に喜ばしくて楽しいはずです。生活の中の一部において、ぼくもそういうフィルターみたいなものを情報収集の一つの手段としては設定している。それは問題ありませんが、中毒性のあるものにハマってしまい、人としての広がりが持てなくなってしまうことってありますよね。人の生き方の部分でいうと、「さまざまな視点を持っていたほうがおもしろいですよ」というレコメンド、つまり可能性を提示して促進すべきです。上の立場からの言い方になってしまいますが、啓蒙の意味も含めて、大好きな情報だけが次々に入ってくるのはいいことだ、おもしろい、楽しい、と深く掘り下げていくのもありですが、ちょっと外の情報に触れることで、ほかの考え方にも出会えるということを伝えたいですね。人生にノイズは要りますよ。
櫻田:ぼくも同様に受け手の立場からすると、芸能ネタとか要らないのでフィルターはありがたいです。そのためフィルターに対しては割と前向きにとらえています。もちろん、政治の情報などにはフィルターがかかるべきではないけれど、日常の範囲においてはフィルターはありがたい。やはり自覚してるかどうかですね。たとえばぼくの場合は、『 WIRED 』のようなテクノロジーやイノベーション系の情報が入ってくるのは、自覚的にフィルターを設定しているので問題ありません。大規模なサービスによるフィルターを自覚するのはむずかしいけれど、自らでフィルターを同じくらい持てばいいのかなと。テクノロジー情報は『 WIRED 』、経済情報は NewsPicks をみるというように、受け手は自分でバランスを取っていくべきですね。そうすることが、松浦さんのおっしゃるノイズや、人生の豊かさにつながっていくのだと考えています。ただ、ぼくも個人的には結構フィルターをかけちゃう方で、もう知らない話が多いんです。バランスを取るためにも、今回のような場に出てきてお話したりします。個人が自ら行動していかなければならない、と思っています。
長谷川:自覚的にかけるフィルターと、アルゴリズムが勝手に裏でつくるフィルターの違いですね。無自覚だとこわいという話ではありますが、実際には情報量が増えていて全部は追いかけきれない。フィルターバブルはもともとネガティブなニュアンスで生まれた言葉ですが、便利な側面のほうが明らかに多いのであれば、実は悪いようなニュアンスで語ること自体、それほど必要ないのかもしれません。
情報リテラシー教育の必要性
長谷川:ぼくはいくつかの大学で講義をしているのですが、その中に多摩美術大学の情報デザイン学科が主催する「ネットワークメディア論」という全学の授業があります。内容としてはメディアがデジタル化した際に起こることを話すので、その中でフィルターバブルにも言及します。全学の授業なので、グラフィックや芸術論などさまざまな専攻の学生がいるんですね。ちなみにいまどきの大学生だと Facebook は全然使わず LINE しか使っていないなど、ジェネレーションギャップを感じます。
それはさておき、こうした学生たちに Google が勝手に検索結果などを個人にカスタマイズして仕分けているという話をすると、ほとんど認識しておらず、考えたこともないんですね。フィルターバブルが発見性を制限しているかもしれないし、そういった形で見識が狭められている人を、世の中に自動的に生み出すしくみになっている。このしくみであれば、たとえばですが Google がある政党や思想に肩入れした場合に、そちらの方向へと世の中の意識を持っていくことは簡単にでき得るはず。もちろん Google や Apple のティム・クック(Timothy Donald “Tim” Cook)の話のようにメガメディアとしての矜持があり、そうした事態にならないとわれわれも信じたいわけです。けれども、そういう事態が起こり得るしくみだという話を、これから社会に出て行く、そして芸術系なのでまさにインフォグラフィックやメディアをつくる可能性のある学生たちは特に認識しておくべきだと考えて、授業を進めています。
授業を受けた学生たちはショックを受けたり恐怖を覚えたりしていますね。それは逆にいえば、これまでそんなことを考えるタイミングもないし、多くの教育プログラムの中に、フィルターバブルに言及するレベルのメディアリテラシーの教育がないということ。日本で以前からいわれている話ではありますが、フィルターバブルというテクノロジーと組み合わさった概念について教育されていないので、多くの人が知らないでいるんですね。現実の生活では便利だから、実用上の意味ではそんなに悪ではないのかもしれませんが、フィルターバブルの存在自体を認知していないのは問題です。ここまでの話で、フィルターバブル自体の問題は「個人がどうマネージメントするか」に落ち着く気はしています。でもそもそもフィルターバブル自体が認識されてないと自分でマネージメントできない。この問題の大きさをあらためて感じました。
松浦:それは純粋に、すでに知っていると思っていたことが、思いもよらぬところからの情報によってこれまでとは別のものにみえて驚いているということではないでしょうか。驚いたときに、きちんと自分で考えて、そこから前に進めるかという話にもつながってきますよね。
松浦:たとえば、Yahoo! Japan の検索システムは Google を利用していると話すと、結構驚かれる。つまり、「仮に Google が強力なフィルターバブルをかけていても、自分は Yahoo! で検索しているから大丈夫」ということにはなりません。フィルターバブルの概要は知っているという方でさえ、Yahoo! Japan の話をすると、「えっ」となります。そうやって驚いたときに、どう考えるか、どんなアクションがとれるかという受け手側の行動に言及するのであれば、教育レベルの話になる。だからこそ、ぼくは発信者の立場ではありますが、個人的に発信者側の論理ですべてを考えてはいけないと思います。たとえば今回のイベントも同様なのですが、受け手側の論理、立場でいるべきだと。情報というのは受け取って鵜呑みにするのではなく、考えるためにつくられるのが、本来のあるべき姿だと思うんですね。これだけ情報があふれる世の中にあって、大事なのは次のアクションを誘発する情報をつくり、発信していくことです。
櫻田:これは思いつきですが、たとえば「子どもが誤飲しないよう注意してください」と記載のある食べ物のように、記事にも「これは一つの見解です」とただし書きがあったらどうでしょう。きちんと読む人は少なくても、意識はします。ぼくも長谷川さんと同様に根本的な原因としては教育だと考えていて、たとえばオープンデータとかオープンガバメントといわれると、「オープン」という言葉にひかれてぼくでも信じてしまう。だけど、そうではないと発信者側がいわなきゃいけないわけですよね。やはり自分でコンテンツをつくるなどの経験をしないと、情報のとらえ方になかなか気づけないのかなと感じました。
長谷川:確かに、そう思います。ぼく自身の問題点は、まさに松浦さんがおっしゃった「気づいて次に進めるか」ということです。大学の授業のレポートでは主にフィルターバブルをテーマに設定していますが、ぼくが「受け手は無自覚なんだ」と教えても、それを聞いた学生たちの次のアクションにつなげられるかどうか、レポートで思索を深められるかどうか、ということです。「こわーい」と言った、その次のアクションをとれるかどうかが本来的な意味でのメディアリテラシーです。次のアクションをとれない人は、おそらく自分の情報をマネージメントすることができていません。そうした状況で、櫻田さんがおっしゃったように、いろいろな方法で伝えていくのも大事で、しかし根本的には教育の問題なんだとあらためて感じました。
リテラシー向上のためにはまずアウトプットから
櫻田:ちょっと補足させてください。先ほどのぼくのプレゼンで、関ヶ原の戦いに関するインフォグラフィックをおみせしました。あれは個人的にデザインの勉強用としてつくったので、 Wikipedia だけを典拠にしてしまいましたが、仕事でつくる上ではほかのソースもしっかりみます。発信し続けることで、周囲の反応から「あ、こんな誤解与えちゃダメだ」と気づき、学んできました。やはり受け手という状態で居つづけると、自ずと弱い立場になってしまう気がします。
松浦:ぼくもその点でいうと、やはりアウトプットすることが大事だと考えています。その気になれば、インプットは無制限にできる。たとえフィルターがあるとしても、Twitter や Facebook、Instagram などさまざまな手段があるので、とにかくインプットするだけであればできる。ただインプットのあとに、アウトプット、つまり自分の中で消化し、編集を行いし、プログラミングを組み立て、そしてプレゼンテーションできるかどうか。先ほどの櫻田さんのプレゼンのお話でいうと、データ収集し、分析し、組み立ててプレゼンテーションできるかどうかが重要だと思います。
私は実は、記事を書くよりもしゃべるほうが得意なので、しゃべるというアウトプットの方法をうまくやるために、訓練をしています。メディアリテラシーというのは、アウトプットがついてまわるのだと思います。ただ、だれだって、アウトプットすることの怖さはありますよね。Facebook や Twitter をやっていませんという方々も結構いるんですが、それは出すことが怖いからやっていない、つまり考えることを止めているのかもしれない。もちろん炎上は怖いですが、それをちゃんと乗り越えるべきだと思います。Facebook や Twitter をやっている自分がテレビなどに出ると、変なメンションが飛んでくるので怖いですよ。でもその怖さを乗り越えてやり続けることで、受け手についてのリテラシーも磨かれるとは思っています。
坂田:所感でもあるんですが、いま個人的に思い浮かんだのがワイキューブの安田佳生さんの『検索は、するな。』(サンマーク出版)という本です。出版されたのは、ちょうど Google のエンジンが主流になった時代だったと思います。「答えを外に求めるな」という一文が非常に印象的で、「なぜなら、求めている答えは自分の中にしかないから」と続きます。彼は生物学などを専門にしていたので、その影響もある上での発言だと思いますが、まさにそうだなと。
かつ、松浦さんのお話は情報の制御権をどこに置くかということだと思います。メディアが持っていた、発信、キュレーションを主軸に置いていた権利のようなものを、今後はユーザーへ自由に解放することが一つの鍵かなと。Medium について補足すると、Medium は一言でいえば「もう一つのネットをつくる」という思想でやっているんですね。LGBT への差別を助長する法律が解禁されたときも、真っ先に発言する自由をうたって、差別がないメディアというかプロダクトにしていこうと。反 LGBT についての発言さえもウェルカムにして、公に発言してくださいというような、インターネットが誕生した当初の望みとしてあった公平性や自由を取り戻したいという考えでした。それが結果として、ユーザーに「インターネットと価値がこう存在しているなら、自分としてはどうなっていきたいのか」と考える選択肢を与えることになればと思っています。フィルターを強化するのか、はたまたセレンディピティーを重視して、フィルターを意図的に制御していくのか。ユーザーに選択肢を与えられることを、今目指しています。
山本:やはり、まずメディアリテラシーのバランスが取れていない状態かなと思いました。情報にどっぷり浸かるか、デジタルデトックスのように完全にやめてしまうかというように真っ二つにわかれてしまっている。本当は、程よい使い方をしていけばいいにもかかわらず。その中で提案としては、アウトプットなどによって自分ももう一度考えてバランスを取っていくのが、受け手のメディアリテラシーを高める方法の一つですね。もちろんそれは Twitter が炎上するといったリスクもはらむので、一種のデジタルトレーニングが必要なのかなと思いました。
(2016年2月20日@ amu )
続きは 5/6 情報の倫理
- 1/6 メディアの信頼性を模索する
- 2/6 メディアの責任とは
- 3/6 コンテンツの役割と設計倫理
- 6/6 IAの役割
【そのほかのプレゼンテーション、ディスカッション】