EVENT REPORT

「弱いIA」の可能性――World IA Day 2015 Japan vol.1 岡田美智男氏

【スピーカー】岡田美智男

EVENT REPORT

「弱いIA」の可能性――World IA Day 2015 Japan vol.1 岡田美智男氏

【スピーカー】岡田美智男

2015年2月21日(土)にWorld IA Day 2015 東京がamuで開催されました。グローバルテーマは「Architecting Happiness」。東京では「身体性」というキーワードでトークやパネルディスカッションが展開されました。レポート第1弾は「弱いロボット」を提唱し、研究・開発を重ねている岡田美智男氏のトークをご紹介します。

OVERVIEW

2015.02.21(土)

スピーカー:
岡田美智男(豊橋技術科学大学 情報・知能工学系 教授)

INDEX

  1. 届かない言葉
  2. 《弱い》が支える人の行為
  3. 足し算のデザインが向かう先
  4. 不完結な身体と環境が生むシステム
  5. 《Entrusting Behavior(投機的行為)》と《グラウンディング》
  6. 互いの行為と意味を補って価値をつくる《相互構成的な関係》
  7. 《弱さ》の力

届かない言葉

山本:早速ですが、まず最初に「弱いIAの可能性」ということで岡田さんからお話いただければと思います。岡田さんよろしくお願いします。

岡田:どうもはじめまして、岡田と申します。今日はトップバッターということでなかなか会場の雰囲気がわからないんですが、ちょっと弱々しいタイトルを用意させていただきました。全体のテーマが「Architecting Happiness」で、ローカルなテーマとしては「身体性」ということですね。

私はロボットを使ったコミュニケーションの研究をしていまして、最近は「弱いロボット」という話をしています。この「弱さ」というものと関連づけて、 “Happiness” をどうつなぐか。あるいは、その身体性というものを情報アーキテクチャとどうつなぐか、ということがお題としていただいたものなのかなと思っています。

実は、情報アーキテクチャっていうような言葉を先日はじめて聞いたので、この分野がどういう経緯で議論されているかあまり知らないんですが、いろんな話をうかがったところ、情報をどういうふうに伝えるか、あるいはどのようにわかりやすく伝えるか、などいろんな設計論について議論しているとうかがいいしました。

私はもともとNTTの基礎研究所でコミュニケーションの研究をしていたり、それから関西の国際電気通信基礎技術研究所でロボットを使ったコミュニケーションの研究をしていました。最近、大学に移ってからはインタラクション&コミュニケーションデザインの研究を行っていますので、すこしは(IAが)コミュニケーションと関係があるのかなと思って話題提供させていただくことで接点ができるかなと思っています。

まず最初は、ぼくがこういう分野で仕事をはじめたきっかけをお話させていただけたらと思います。そもそも「伝わる」ってどういうことなのかということを考えはじめたのがきっかけです。この自動販売機、もう20年も30年も前になるんですけど、お金を入れてボタンを押したら缶ジュースが出てきて、それを取って立ち去ろうとしたら、後ろから「ありがとう」という言葉が聞こえたんですね。

最近、すごい時代になったものだなと、当時は驚いたんですけど、何度かこの言葉を聞く中でちょっと変だぞ、と。彼らは一生懸命言葉を発しているんですけど、ぼくらにはお礼の気持ちとして伝わってこない、って話ですよね。ですから、たぶん彼らは伝えようとしているのかはわからないけど、一生懸命「ありがとう」という言葉を発している。でも、結果として伝わってはいない。じゃあ、これは合成音声の影響なのか、とか、あるいは顔がないから気持ちが伝わってこない、とか、いろんな議論があると思うんですけど、きっかけとしてコミュニケーションの研究にこういうロボットのようなものを使うと、いろんな議論をしやすいんじゃないか、というところからはじまっています。

そして、いまHuman robot Interactionという分野があるんですけども、音声合成機を使うと「ありがとう」と発したり「あいしてる」って言葉を発したりすることを簡単にしてくれるんですが、そのロボットから「おはよう」って声をかけられたときにはどうかというと必ずしも「おはよう」って言葉を返さなきゃいけないような応答責任をあまり感じないわけですよね。あるいは「あいしてる」って言われてもリアリティに欠けてしまうっていうようなことがあります。結局、言葉というものがあったときに、その言葉が私たちを揺り動かすことができるような力を備えるかどうか。単に言葉を発しただけなら、なかなかむずかしいのかな、というようなことを考えてきました。ロボットについていろんな議論ができるはずなんですね。「心がどうなの?」とか「所詮、機械なんじゃないの?」とかいうような話。

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《弱い》が支える人の行為

私たちを揺り動かす言葉に力を持たせるのはなかなか大変なんですけど、最近ぼくらが議論しているものを紹介したいです。大学生が雑誌を読んでいて、目の前にはペットボトルが転がっています。そして、そばにゴミ箱らしきものがあるんだけど、最近の学生だとこのままで終わってしまう。じゃあ、このゴミ箱らしきものが動いたらどうなるのかということで、動かしてみました。こんな感じです。

(動画再生)Sociable Trash Box
https://www.youtube.com/watch?v=-zhAAVI3iVc

ペットボトルを見つけるんだけど、自分で拾えない。それで、人のところにすり寄って行って、頭をペコリと下げると、なんか思わず(人が)拾ってあげたくなる。このときに(ロボットに)挨拶されるとなんかうれしい気持ちになる。これだけの話なんですけども、こういう場面を使って思わず助けたくなるとか、あるいは「拾って」と言っているように思ってしまう、だからこういう場面は私たちを揺り動かしているのではないか、というわけですね。こういう場面がどうしてできるかということを議論してもいいんじゃないかなっていう話なんです。

このロボットは他者を巻き込んでスマートに目的を達成してしまう、まあ、言えば他力本願なのでちょっとズルいぞって感じですね。研究としては、こういう社会的なスキルをどう獲得させたらいいのかっていう議論になりますし。もう1つ重要なことは、このロボットはとてもローテクですよね。大した技術もないんですけど、でも人を揺り動かして目的を達成してしまうということです。先ほどのコミュニケーションの話で言うと、思わずゴミを拾ってあげたくなるような場を生み出している、ということがちょっとおもしろいかなと。あるいは、人を揺り動かすっていう意味では「説得性」みたいな議論をする上でも、メディアが人を揺り動かしているというのはおもしろいぞ、というわけです。

3つ目に重要なことは、私たちが拾ってあげたとき、なんかうれしいということ。手伝った方もなんかうれしい。私たちはゴミ箱ロボットのことを一生懸命支えてあげているんだけれども、実はこのゴミ箱ロボットから支えられている部分があるんじゃないか、っていうふうに人とロボットが共生するということについて議論する上でこういう関係性はなかなかおもしろいな、と思っています。

実際に、場所において子どもとロボットとの間にどんな関係性が生まれるか、とかいろいろな議論をしています。こういうふうに、一人ではゴミを拾い集めることができないんだけども、子どもたちのアシストを上手に引き出しながらやっていくと、結果としてゴミを集めてしまう。そういう意味で、ぼくらはゴミ箱ロボットを “Sociable Trash Box” と呼んでいます。

いろんな実験をしてみて、3つで動かすと子どもたちが勝手に(ゴミの)分別をしてくれるとか、1つの場合と3つの場合で子どもの態度って全然違って、一個の場合だと蹴っ飛ばされたり、いじめられてることが多いんですけど、3つで堂々と群れを成して動いている場合ですと、子どもたちが遠巻きにみる、とかですね、いろんな反応があっておもしろいです。

じゃあ「どういう設計思想なの?」と言われると、非常にシンプルで、「ゴミを拾えない」ということであれば「子どもたちに拾ってもらえばいいんじゃないか」っていう発想ですね。あるいは、ゴミの分別は画像処理で識別をすればある程度の分別がロボットでできるのだけれど、それがむずかしいのだったらゴミ箱に期待せずに、子どもたちに拾ってもらえばいいんじゃないか。そういう発想でモノをつくっていくと、どんどん削ぎ落とすことができるのではないか。こういった考え方は、「引き算としてのデザイン」あるいは「チープデザイン」、つまりロボット個体の能力はチープなんだけれど、その代わり、人を巻き込む、あるいは人の関係性をリッチにしながら目的を達成するという方略になるか、だと思います。

このチープデザインの例は身近にあって、最近おもしろいなと思ったのはゴミ箱ロボットじゃなくてお掃除ロボットです。このロボットと一緒に生活してみると、勝手に一人で掃除をするんだけど、弱さもすこし気になります。たとえば、部屋の隅にあるコードに巻きついてロボットがギブアップしてしまう、とか椅子が乱雑に並んでいるところの中に入り込んで袋小路から出られなくなってしまうとか。

だんだん私たちがそういう弱さを把握できてきたとき、どうするかというと、最初にこういう椅子を並べたり、隅のケーブルをよけておいてあげたりしてスイッチを入れてあげる。よくよく考えてみると、結果として部屋がとても綺麗になっている状況があって。その部屋はだれが片づけたのかというふうに考えてみると、実は自分一人で片づけたわけではないし、じゃあお掃除ロボットが片づけてくれたのかと言われたらそうでもない。「一緒になって部屋を片づけてくれた」という意味ではおもしろいなと。このお掃除ロボットは、わたしたちを味方につけながら一緒になって部屋を綺麗にしたという意味ではなかなかおもしろいぞ、と。

このロボットは、ぼくらを味方につけるだけじゃなくて、よくよく考えてみるとこういうところから走り出して、壁にぶつかると方向転換してまた動き出す、ということを繰り返して部屋を掃除しているので、結果として壁を上手く利用して掃除しているということがわかります。それから、このお掃除ロボットにとって椅子やソファのところは障害物なのかなというふうに考えてみると、実はこれらの障害物のデコボコしたところが、ちょうどいいランダムな動きをつくり上げてくれる。結果として部屋を万遍なく掃除することができる。そういうふうに考えると、ランダムなところを上手に味方につけながら部屋を万遍なく掃除している、と言えるかもしれません。

そんなことをいろいろ考えて、伝えようとしてもなかなか伝わらない自動販売機の「ありがとう」という問題に対してみると、伝えようとしなくても伝わってしまう、ということが結構あって。いまの場合でいうと、私たちを揺り動かすような力を持っているというのは一つおもしろいぞ、というわけですね。それから、これは一緒に行動をつくりあげるという《関係論的な方略》とも言えて、そうした意味でなかなか捨てがたいなと。それから3つ目は、そのロボットの思いは確かに私たちに伝わってくるということ。言葉は使ってないけども、志向的な考えを引き出すとか、身体的な基盤を上手く利用してコミュニケーションを成し遂げてしまう。4つ目は手伝った方もうれしい、ということなんですね。

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足し算のデザインが向かう先

Happinessってグローバルテーマにもあったと思うんですけど、私たちが単に手助けしたわけではなくて、実は私たちがそのロボットから支えられている。相互構成的な関係性をつくりあげているのがいいなと。こんな話が情報処理システムの中でもいろいろ議論できるとおもしろいんじゃないかな、と思っています。

じゃあ、このお掃除ロボットがもっと完璧に部屋を掃除するような能力を持つというふうに考えるとどうかというと、ぼくらは(機械に)「おまかせ」になるんですよね。役割の間に線が引かれると、途端に相手に対する要求水準をあげてしまうということがあります。「あなたは掃除をする人、私は掃除をしてもらう人」みたいな。どうなるかというと「もっと静かにできないの?」とか「もっと早く終わらないの?」とか「この取りこぼしはどうなの?」ってことでどんどん要求水準をあげてしまう、ということがあります。

こういう場面は最近の世の中でいろいろ起こっていて。たとえば、学校の先生が学生に対して一生懸命に資料を用意して、パワーポイントをつくって、がんばればがんばるほど、「私は教える人」「学生は教えてもらう人」というその役割の間に線が引かれてしまう。そうすると、相手に対する要求水準をどんどんあげていく、ということですね。「もっと私にわかりやすく話してよ」「もっと大きな声で喋って欲しい」「私が理解できないのはあなたがちゃんと話してくれないからだ」というような、すこし変な雰囲気になってしまいます。

これは学校の先生と学生だけの関係性ではなくて、情報システムについても言えるんじゃないか。情報を提供する人と情報を受け取る人の間に線が引かれた途端、相手に対する要求水準をどんどん上げてしまう。至れり尽くせりで情報を相手のために設計してしまうと要求も高まってしまう。そういう状況があるんじゃないかな、というわけです。

ある個体に情報を集約する、あるいはロボットの個体に機能を集約していく考え方を「個体集約主義」というわけなんですけども、ロボットのデザインでも全く同じで。最初「二足歩行ができた」というと、「じゃあ表情はどうなの?」ということで新たな機能を要求していって、その要求に合わせてぼくらは機能を足し算していく、という方法でつくってきているわけです。「個体能力主義」は、機能とか能力を個体に一方的に帰属させやすいという性質があるんです。

あるいは、ゴミ箱ロボットやお掃除ロボットもその技術が日本にわたってくると、たとえば日本の企業は音声認識を加えてみる、とか部屋の様子を把握した上で最適な掃除をする、など新しい機能をどんどん追加するという方向に走るわけです。どうして機能を追加しないといけないかというと、量販店で考えたらわかるように、毎年毎年新たに機能が加わる。同じ値段であれば機能が増えている方が選びやすいということで、技術者も毎年機能を追加しなければいけない。いわゆるノーマンの「なしくずしの機能追加主義」のような感じで機能を追加していく。なんで機能を追加してしまうのかというと、まあそれが仕事だからって話ですよね。それをしないことには明日仕事がなくなってしまう、ということもあるかもしれない。

こういうふうに機能を個体の中に集約させていくという考え方が限界にきていて、すこし疲れ切っているのが日本のものづくり企業のひとつの特徴かなと思います。だったら、「一人でなんでもできる」ということを諦めて「一人ではできない」と旗を上げてしまってもいいんじゃないか。チープデザインであるとか、引き算としてのデザインの考え方、要は個体に能力を求めるのではなく、むしろ関係の中からあらわれる能力にシフトしていってもいいんじゃないか。そうすると、ものづくりっていうのはモノをデザインするんじゃなくて関係性をデザインする、あるいは関係を生み出す余地をデザインしたり、コトをデザインする方向にどんどんシフトするのではないか、ということです。

不完結な身体と環境が生むシステム

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その関係論的なことを議論するときに、今回のローカルテーマである身体性という絡みは出てくると思うんですけど、その手本は私たちの身体にあるのではないかということです。私たちの身体ってどういうものかということを議論する上で2つの見方があるんじゃないか。

1つは観察者から見た身体、それから内なる視点から見た身体。ふつうは観察者からの視点で私たちの身体を眺めることが多いんですね。みなさんの身体を眺めるとそれはそれで個として完結しているという先入観を持ちやすい。なぜかというと、外から容易に観察できるので、それはそれで個として完結しているんじゃないかということです。そういう意味で、私たちの能力だとか機能というものを、個体に帰属させやすいというのが、最後のアリなんかでいろいろ議論されてきたことかもしれません。外から見る身体感と、内なる視点から見直すということを考えるとどうかというと、(絵を見せながら)こういう図がよく知られているんですけど、エルンスト・マッハという人が自分の自画像を描いたわけですね。

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「自画像を自分の内なる視点から描いたらどうなんだろう」とすごいことを考えているんですけど。左目から見た自画像なんですけど、自分の左目から見る自分の姿をスケッチしていくと、向こうに壁が見えたり床が見えたり。その一部に自分の足が見えたり、お腹の部分が見えたり。ところがですね、こうやって描いていくと、よくわからないけど、ここに鼻が描かれたり、口ひげが描かれたりしています。おもしろいことに自画像なんだけど、自分の顔がこの絵にはないというようなことですね。こういう自分の内なる視点からは「自分の顔は見えない」というのがある種の制約、これが私たちの身体に内在している「不完結さ」というものなんじゃないかなということなんですね。

じゃあどうしているかというと、こういう左目だけでもいいんですけど、この環境の中で自分の顔を左右に振ってみるとどうなるかというと、その見える範囲の変化から、自分の世界の中でどんなことをしてなにをしているかという自分の姿が見えてくる。ですから、みなさんの顔の表情をうかがいながら「ぼくはこんな表情で話しているんじゃないか」と、イメージの世界なんですけど、そういうイメージの顔をここにくっつけてみなさんと付き合うということをやっているわけです。自分の身体なのに自分の内なる視点からは見えないという制約。環境ってひとつのシステムをつくりながら、それを補完してるんだ。このアイデアはギブソン*2のものなわけですけど、私たちの身体というのは不完結なんだけど、自分を取り囲むものと一つのシステムとしてつくりながら結果として価値あるモノを生み出しているのではないか、というような話なんです。

たとえば、地面の上を歩くでも画用紙に絵を描くでも、基本的にこういう構造が成り立ちます。自分の身体は不完結なんだけれども、環境と一つのシステムをつくりながら行動を形づくる。不便な身体と付き合っているということが言えるかもしれません。

《Entrusting Behavior(投機的行為)》と《グラウンディング》

たとえば、歩くということ。ASIMOの動歩行の研究で明らかになったように、転ぶかもしれないし、どうなってしまうかわからないけど、とりあえず身体を傾けながら前に一歩踏み出す。そのときに私たちはどうなってしまうかわからないけど、身体を地面にそっと委ねる、そういう期待を裏切ることなく地面というのは私たちを上手に支えてくれる。そういう中で意外と効率的な歩き方を実現しているということが動歩行の研究でだんだんわかってきました。私たちは「地面の上を歩いてるのは自分だ」と考えやすいんですけど、これは地面の上を歩くと同時に地面が私たちを歩かせているという見方ができるというわけですね。地面と私たちの身体が一つのシステムをつくって、価値ある行動をつくりあげていくという特徴があります。その地面からの支えを、ここでは《グラウンディング》といって、どうなってしまうかわからないという振る舞いを《Entrusting Behavior(投機的行為)》、それに対する《グラウンディング》というカップリングの中で私たちが賢い行動をつくりあげているんだということが言えるかもしれません。

あと、こういう会話の場でも同じで、「話しているのはぼく一人だ」と考えがちなんですけど、いまぼくが話しているのはみなさん多くの方が聞き手になっているから話すことができている。話をするってとても個人的な行為にみえて、実はこういう社会的な環境とひとつのシステムをつくりながら実現している。ぼくの役割も、やはり不完結さを含んでいて、それをみなさんに委ねながらみなさんの《グラウンディング》を得て、会話の場をつくりあげているということが言えるかもしれません。

たぶん、これはFacebookでもLINEでもTwitterでも同じことをやっていて、私たちが言葉を繰り出す瞬間瞬間ではその言葉の意味って不完結なんですよね。だれかの《グラウンディング》があってはじめて意味を完結していくというわけです。たとえば、Facebookなんかで「こんなこと書いてもいいのかな」てハラハラドキドキしながらクリックしてたりするんですけど、だれかが「いいね」を押した途端に安心する。この「いいね」というのは、実は先ほどの第一の働きにあった《グラウンディング》の働きがありまして。この言葉を表に繰り出すとき、その意味は不完結なままなんですね。それがだれかが支えてくれて、はじめて言葉の意味が完結していく、ということがあります。多分TwitterであったりLINEであったりとか140文字の制約も、ある意味では不完結なんだけれども、それが人のアシストを上手に引き出すドライビングフォースになっていて、他者の《グラウンディング》を引き出している。投機的な振る舞いに対して「ちょっと眠い」とか言うとホッとして《グラウンディング》される。この「ちょっと眠い」ということでまた投機するとですね、だれかが「もうすこしだからがんばって」というような《グラウンディング》があって、また「了解」ということでそれが支えられる。そういうタイムラインなんかは《Entrusting Behavior(投機的行為)》と《グラウンディング》の連鎖によってつくりあげられているということがわかります。

互いの行為と意味を補って価値をつくる《相互構成的な関係》

それから不完結なものを他者に支えてもらうということで言うと、幼児ってやっぱりすごい。子どもはお母さんの胸の中で抱っこされているだけで、彼らはその胸の中でなにもすることができないとても弱い存在にもかかわらず、ぐずりながらお母さんのミルクを手に入れたり、行きたいところにも移動できてしまう、というわけですね。これも不完結ながらお母さんのアシストを上手に引き出して関係論的に行為を上手く実現していると考えると、子どもってすごいなというわけです。

そういう発想で、私たちの身体っていうのは不完結であって、つねに周囲の環境とひとつのシステムをつくりあげながら価値ある行動を生み出している。それは言葉であっても、あるいは社会的環境との関わりであっても、同じような図式ができるんじゃないか。そういう私たちの「身体の不完結さ」っていうのをキーワードにロボットをいろいろつくってきました。で、その「弱いロボット」っていうのは単にか弱いという意味じゃなくて、私たちの身体が不完結であること、それで周りからのアシストを上手に引き出しながら目的を達成する、そういう意味での関係論的な行為方略を備えるロボットという意味でつくっています。ぼくの研究室の学生さんがいろいろアイデアを出しながらつくっているので、それを了解してみていただければと思います。

(動画再生)COLOMN
https://www.youtube.com/watch?time_continue=102&v=kNYT4ArxgIU

これもなんとももどかしいロボット。自分でなかなかコントロールできなくて、思うような方向に転がれないという大変なロボットです。身体を変形させながら重心の偏りをつくって、目的方向に転がる。上手に身体を変形させれば目的方向に転がるんですけども、12個のアクチュエートを上手くコーディネートさせないと目的方向に転がらない、とてももどかしい。そういうもどかしさというものは、ぼくらの身体にも内在しているものなんですけども、そうすると周りの応援を引き出してしまうようなことがあります。今日は時間がないのでそれほど長くお見せできないんですけども、この『COLOMN』Youtubeに載っていて、いまたぶん200万アクセスぐらいかもしれません。こういうものを学生が一生懸命つくっているところです。こういう、変形させながら重心の偏りをつくって前方向に転がるんだけど、上手く変形させないと上手く転がらないものです。こういうのも弱いロボットかな、と。もう1つは、もっとか弱いというか赤ちゃんのおぼつかないような動きを模したロボットをつくっています。

(動画再生)Pelat
https://www.youtube.com/watch?v=hHIGMIHfXm0

役に立ちそうなロボットではないのですが、よたよたしていてなんか(ロボットから)頼られているような感じがあって。ぼくらはなんとなく(ロボットを)支えているような気がしているんですけど、実はこのロボットがいなくなってしまうとぽっかり喪失感を覚えてしまう、そんなロボットです。私たちはこのロボットを一生懸命ささえていたつもりが、実はそのロボットの存在によって(私たちが)支えられていたようなものになるんじゃないかというわけですね。

(動画再生)マコの手
https://www.youtube.com/watch?time_continue=3&v=K1IfDy_A1t8

こういうロボットというと、「ぼくらを案内してくれる」とか「ぼくらがロボットを連れ歩く」というような感じがするんですけども、基本的には対等でお互いに何気なく歩く中で、だんだん目的方向が合ってきてだんだん(ロボットと)つながってくるような感じとか疎通し合った感情が生まれるじゃないか。そういう並んだ関係でのコミュニケーションを研究するという目的でつくっているものです。こういう弱さが、私たちを無意識に揺り動かしていたり、一緒になって行為を組織化したり、彼らの思いがなんとなく伝わってきたり。私たちの身体と同型な身体を持つものに対して、ぼくらが《志向的構え》を取ってしまうことによるんですけども。それから、一緒になって手伝った方もなんとなくうれしい。支えてたつもりが、実はその存在によって支えられている、そういう関係性が成り立つのかなと思っています。

こういうものをもっと情報システムとして考えていくとどうだろうと。手伝った方もうれしいのはなぜかって言われたらこれは多分わかると思うのですが、そこには《相互構成的な関係》ということがあります。お母さんが一生懸命子どもを育てる、そうするとだんだん子どもが元気よく育ってくれるんですけども、育ててるお母さんはどうなのかというと、子どもの存在によって価値づけられるということがあると思います。これを子どもを上手に育ててる人としてその子どもの存在によって価値づけられる方向性があるんですね。これを《相互構成的な関係》と呼びます。

これはモノを使っているときも全く同じような関係があるんですけど、たとえばハサミ。ハサミはそこに置いただけではなんの役にも立たないんですけど、私たちの手によってはじめて「糸を切る・髪を切る」ような役割が出てくる。だんだん使う人が熟練する中でハサミにどんどん新しい機能が備わると同時にそのハサミを使いこなす人として私たちはそのハサミの存在によって価値づけられる、お互いに幸せな関係になる、という。これが《相互構成的な関係》だと思うんですよね。ゴミ箱ロボットと私たちの関係がカップリングが上手くいくのもこういう関係が成り立っていくものですし、先ほどのお掃除ロボットの関係もこういうところがあります。

《弱さ》の力

「弱い情報アーキテクチャ」っていうのは、ぼくはあまり不勉強で知らないんですけど、コミュニケーションを絡めて考えるといいかなということで、これまでいくつかつくってきたロボットをちょっと紹介しながら。伝えるから伝わる、あるいは現象的コミュニケーションということを考えてみたいと思います。

talkingeyeトーキング・アイ

これをどう解釈したらいいかというのはむずかしいところですが、言葉の意味をどんどん削ぎ落としていったらどうなんだろうというような話の中で、ピングーの話で「こんにちは」と言うと反響模倣するような。そうすると、伝達的なコミュニケーションじゃなくて生成的なコミュニケーション、委ねてそれを《グラウンディング》するとそこにオリジナルの意味が立ち上がるという状態が生まれてきます。これをロボットに変換したのがMUUというロボットなんですけど。

(動画再生)MUU参考ページ
http://www.icd.cs.tut.ac.jp/projects/new_muu.html 

こういうものです。ちょうど母親と幼児のような関係になって、「この子は何者だ?」というふうに言葉をかけるとちょっと反応してくれます。「心があるのかな?」とそういうふうな前提でまた話しかけてみると、また反響的な模倣をしてくれて、その仮説をさらに強化してくれる。そういうやりとりの中で成長していくものなんですね。こうして言葉の意味をどんどん削ぎ落とすということをやっていたんですけど、最近は言葉が非流暢なものだったらどうなんだろうっていうことで、相手の目線を気にしながらおどおどとしゃべるロボットだったらどうなんだろう、というのをつくっています。こんな感じです。

(動画再生)トーキング・アリー
https://www.youtube.com/watch?v=sQOKc6S3cJg

フェイスラボっていうアイトラッキングの装置があって、聞き手の女性がちょっとでも目を外すと、「あのね、えっとね」とあまり流暢ではないんだけどぼくらに一生懸命伝えようとしている、そういう気持ちが伝わってきたり思いやりが伝わってきたり、そういう単に流暢なコミュニケーションが相手に伝えるものではないんじゃないか、ということですよね。

結局こういう他者を揺り動かすっていう意味では、テキストを単に合成するよりも、なにかを伝えてくれたり、聞き手として一生懸命参加して一緒になって発話をつくりあげる、そういう関係論的な場面が生まれたり、私たちがその対象に対して《志向的な構え》をとったり、あるいは一緒になって話を聞いてあげる、そういう貢献をする中で「手伝った方もうれしい」、そういう《相互構成的な関係》を成り立たせるのが、こういうものの特徴かなと思います。これの展開としていろいろ考えられるんですけども、最近「頼りないナビ」はどうなんだろうとかですね。ここにナビゲーションの代わりにこんなものがあって、3人がおしゃべりをするんですけど「どっち行く?」とか「うーん、どうしよ?」とか「そこ右かな?」というような感じのカーナビゲーションがおもしろいかなと考えています。

(動画再生)参考ページ:
http://www.icd.cs.tut.ac.jp/projects/new_da.html

こういうナビもおもしろいかなと。ちょっと頼りないものが私たちの参加を引き出して、一緒になって形成していくとそれに伴って説得力も伴う。いままでのナビゲーションというのは、目的を設定すると一方的に指示を与えるので運転しているのか運転させられているのかわからない、という状況になってくるんですよね。そういうちょっと頼りなげなものが、関係論的な情報環境になるんじゃないかという話です。これはたぶん、なかなか結論を言ってくれないというような「悩み多きパーソナルエージェント」みたいなものを応用したりもできるかなと思います。

silde44

これはちょっと時間がないので飛ばしますけども。

(動画再生)Sociable Dining Table
https://www.youtube.com/watch?v=zLkpcJh7pWI&feature=youtu.be

言葉の意味が共有されなかったらどうなの、というようなことでこういうテーブルの上で動いているようなものでノックオンでコミュニケーションするんですけど、最初からプロトコルとかノックの意味とか共有されていない。それで、遊びながらその意味を共有させていくとなかなかいいんじゃないのと。で、実際やってみると最初はランダムだったものが、だんだん対応関係がとれてきてオリジナルなノックオンの意味が共有できる。共有できると自分しか関われない相手が生まれてくるので、それが愛着の対象になるというものですね。最初は「2回叩くと前に動くんだな」とか、3回と1回の区別がつかなかったものが、だんだん学習が進んでくると分節化が生じて、1回の意味と2回の意味と3回の意味がちゃんと分離される。そうすると、愛着の関係が生まれてきておもしろいかなと思っています。そんな研究もしています。

たどたどしいとか頼りないとか、いろんな「弱さ」が関係性を上手く引き出してくれるんじゃないか。今日、そういう弱さが関係性を引き出して他者を揺り動かす、あるいは一緒に行為を組織していく、あるいはその思いが伝わってくる、あるいは一緒になって手伝った方もうれしい。そういう関係が生まれるとおもしろいかなという研究を今回は紹介させていただいたということで。また後でいろんな質疑とかお願いできればと思います。

最後に『弱いロボット』という本を2年前くらいに書いて。去年書いた『ロボットの悲しみ』というちょっと情けない本が今日は会場にいくつかならんでいるんですけども。なかなか自分で上手く表現できない本なんですが、いろんな人から意外な書評を書いていただいて「あ、おれが言いたかったことはこれなのか」と書評から教えていただくような、そういう感じの「弱い」本だなと思っています。もしよかったらどこかで手に取っていただけたらと思います。ご静聴ありがとうございました。

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*1 ジェームス・ギブソン(James J.Gibson、1904年-79年12月11日)アメリカの心理学者。ゲシュタルト心理学に影響を受け、環境が人間の行動や知覚に与える可能性を示す「アフォーダンス」の概念を提唱したことで知られる。生態心理学の領域を切り拓き、心理学以外の領域でも広く影響を与えた。

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【関連リンク】
・World IA Day 2015 Japan 公式サイトはこちら
・World IA Day 2015 Japan の動画はこちら

こちらもあわせてお読みください。

【World IA Day 2015 Japan レポート】
プレゼンテーション

パネルディスカッション
岡田美智男氏、江渡浩一郎氏、若林恵氏、大林寛氏

オープンディスカッション
岡田美智男氏、江渡浩一郎氏、若林恵氏、長谷川敦士氏

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