EVENT REPORT

分類しづらい本のような存在になりたい
――「肩書きはまだないvol.4」レポート1/2

【ゲスト】内沼晋太郎

【聞き手】土屋綾子、神谷衣香

EVENT REPORT

分類しづらい本のような存在になりたい
――「肩書きはまだないvol.4」レポート1/2

【ゲスト】内沼晋太郎

【聞き手】土屋綾子、神谷衣香

ここ数年で、さまざまな仕事の価値観に出会うようになりました。このイベントでは、肩書きという枠を超えて幅広く活動する人たちをゲストに迎え、仕事に対する考え方や、その原動力などに迫ります。
シリーズ第4弾のゲストは、下北沢の本屋「B&B」の内沼晋太郎さん。多くのメディアでも取り上げられる「B&B」を立ち上げるまで、どのような考えのもとに活動されてきたのか。トーク前半では、その原点となるお話をうかがいました。

OVERVIEW

2016.01.22(金)

ゲスト:
内沼晋太郎
聞き手:
土屋綾子(株式会社コンセント)、神谷衣香(amu)

INDEX

  1. イベントプログラム
  2. いつまでも仮の肩書き
  3. どの棚に置いていいかわからないような本がおもしろい
  4. 食えないミュージシャンにはなりたくなかった
  5. 未完に終わった、ノンブルがすべてURLの雑誌
  6. 自分が出版業界をなんとかできるかも、という妄想
  7. 出版業界の内側に入らず、外側から関わっていく
  8. 古本1冊紹介するために、わざわざあらかわ遊園で撮影
  9. 「サガンの墓」がきっかけで立ち上げたnumabooks

イベントプログラム

19:30-20:20 ゲストトーク前半
20:20-20:30 休憩
20:30-21:10 ゲストトーク後半
21:10-21:30 質疑応答、ゲスト・参加者の交流

(写真=後藤武浩)

katagaki4-1

いつまでも仮の肩書き

神谷:本日のゲスト、内沼晋太郎さんです。よろしくお願いします。

内沼:よろしくお願いします。内沼と申します。下北沢で2012年に本屋「B&B」をオープンし、経営しています。この後いろいろお話しますが、基本的にはずっと本に携わることを仕事としてきました。入口が洋服屋など異業種の場に本の売場をつくる仕事だったので、そういった活動を続けていくために「ブックコーディネーター」、「クリエイティブディレクター」という肩書きを名乗っています。今日は「肩書きはまだない」というイベントですが、ぼくはいつまでも仮の肩書きみたいな気持ちでいます。

神谷:ありがとうございます。では肩書きの話からうかがいましょう。今の2つの肩書きを名乗りはじめたのは、いつごろですか?

内沼:正確なところは忘れてしまったのですが……。たぶん、2005年か2006年ぐらいに『編集会議』にインタビューが掲載されたときには、「ブックコーディネーター」と書いてありました。一番最初の仕事が、2005年に原宿にオープンした「トーキョー・ヒップスターズ・クラブ」という洋服屋なのですが、そのプロジェクトに2004年ぐらいから関わっていました。当時24歳ぐらいで、まだなんて名乗っていいのかわからず、「フリー書店員」と言っていたんです。でもそれはわかりにくいなと感じていました。そんなときに、雑誌のインタビューがあり、肩書きを求められたのがきっかけだったと思います。

神谷:自ら意識して肩書きをつくったうえで活動していたというより、聞かれてから「肩書きどうしようかな」という感じだったんですね。

内沼:そうですね。どちらかというと「洋服屋の中に売り場をつくる」という仕事の方が先にあり、「このことをなにをしていると表すのか」と考えた形です。当時ブックピックオーケストラという屋号で活動しており、ぼくは立ち上げた2003年から2006年の末まで代表を務めていました。インターネットの古本屋のほか、いろいろな場所に古本を売りに行ったり、ちょっと変わった古本屋を出したり、さまざまな活動をしていました。さらに新刊書店でアルバイトしながら、ライターのような仕事もするなど、できることはなんでもやって食べていたという感じなんです。そのときに、特に洋服屋の中に本の売り場をつくるような仕事を中心とした、本にかかわる活動全部を表すものとして、「ブックコーディネーター」と言いはじめました。だから、肩書きが先にあってその仕事をしているというよりは、やっていることがあって、それを説明するために名乗ったんですよね。
もう一つ「クリエイティブディレクター」とつけているのは、これはもうほとんど嘘みたいな話で……。

神谷:嘘というのは(笑)、厳密に言うと違う、みたいな感じですか?

内沼:イメージがわく人とわかない人がいると思いますが、「クリエイティブディレクター」という肩書きが一番使われるのは広告業界の結構上の立場の人、要はアートディレクターやコピーライターがいて、その一つのプロジェクトのクリエイティブ全体を統括している人に対してですよね。実をいうと、ぼくは自分がそれを名乗りはじめた当初、実際の広告業界の「クリエイティブディレクター」のことをなにも知らなかったんです。なんとなく「クリエイティブをディレクションするんでしょ?」ぐらいの気持ちだったと思います。もちろん、業界によってはさまざまなクリエイティブディレクターがいるのかもしれませんが、ぼくの場合はほとんど嘘や勘違いみたいなものですね(笑)。

土屋:みんなが思っているより、もっと広い意味で使っていたということでしょうか。

内沼:そのとき自分でデザインやWeb制作、編集やライターの仕事もしていたし、結局メディアをつくるとか、Webメディアをプロデュースするような仕事も少しあったんです。頼まれるままにいろいろやっていたときに、それを「ライター、デザイナー、編集者……」といくつもの肩書きで書くのは面倒なので、「クリエイティブ全般」ということを一気に言いたいなと。「クリエイティブディレクター」という肩書きの人がいるみたいだから、それでいいのかな、という軽い気持ちでつけました。

神谷:これは便利だな、ぐらいの感じだったんですね。

内沼:そうです。当時はディレクションというより現場仕事が中心だったので、今考えたら笑っちゃうような話ですね。今は本当にクリエイティブディレクターみたいな仕事もしていますが、はじめは魔法みたいな言葉として使っていました。

どの棚に置いていいかわからないような本がおもしろい

土屋:より自分のことを説明できている肩書きというと、「ブックコーディネーター」の方になりますか?

内沼:どちらも結局、やっていることが先にあり、それを説明するためにつけたので、どちらがより、ということはないです。だから、本当は別に肩書きというのはないんですよね。たぶん、本来の肩書きというのは、仕事の内容と肩書きが1対1で、「その肩書きがついている人はこういう仕事をするものだ」と決まっている場合が一番よく機能すると思います。その仕事の中にいろいろな仕事があるのだとしても、それはここからここまでという範囲が決まっている。でも、ぼくの場合は仕事がいろいろと分散していくときに、いくつも肩書を並べるのは面倒だしカッコ悪いので、勝手に包括する概念として「ブックコーディネーター、クリエイティブディレクター」と2つで表して、説明しているかのように見せかけています。本当は説明になっていないので、肩書きはいらないんですよ。だけど求められることが多いし、それがないと受け入れてもらえない。「職業は内沼晋太郎です。ぼく自身が肩書きです」みたいなところまではまだ全然いけていないし、誰かがそのくらいに認めてくれたとしても自分から言うのは恥ずかしいと思っているので、本当に便宜上つけている感じです。たとえば、Webメディアやブログをやっていたら、その記事にタグやカテゴリーをつけないといけないじゃないですか。

土屋:つけないと情報がまとまらないということでしょうか。

内沼:そうです。だから肩書きは、自分のタグやカテゴリーみたいな感じですね。

土屋:サブカテゴリーが多いから親カテゴリーをつくった、という感じなんですね。

内沼:まさにそうです。サブカテゴリーが一個一個バラバラだから、まとめる親カテゴリーを2つつくりました。人から「ブックコーディネーターってなんですか?」と聞かれてなにを指して言っているのかは説明できますが、「どうすればなれますか?」と聞かれたら、わからないですね。

土屋:それは本の棚づくりにちょっと近い気がしますね。分類はあるけれど、どんな本が入ってくるのかは、その分類だけだと説明し尽くせなくて悩む、というのに似ている気がします。

内沼:そうですね。本屋だから本当は棚に並べやすい本が扱いやすいんです。でもぼくがいいなと思うのは大抵、本屋のどの棚に置いていいかよくわからない本なんですよ。そういう本がおもしろいことが多いなと思っていて。そういったどこに置いていいのかわからない感じになりたい、というところはありますね。

土屋:ちなみに、これまでのゲストの肩書きの捉え方を振り返ると……。

神谷:第1回のヌケメさんは、肩書きは自分が今後の人生どのようなことをしていくつもりなのか考えたときに、それを一言で表せる言葉なのではないか、ということでした。しっくりくる肩書きがあると便利だけれど、ヌケメさん自身はまだしっくりくるものがなく、将来的には「タモリ」のような「人名=肩書き」になれたらいいなというお話をされていましたね。

内沼:それは理想ですよね。最後はそこにいければいいですけどね。

土屋:ヌケメさんは、ずっとその気(け)はあるように思います。

内沼:それを目指して「ヌケメ」というカタカナにしているのかもしれないですね。

土屋:第2回のカズワタベさんは、「プロトコル」という言い方をしていましたね。

神谷:そうですね。どちらかというと、肩書きはそんなに必要ないのではないかと。肩書きを見るよりも人と実際に話すことを大事にされているというお話でした。第3回の武田俊さんは相手のフィールドに合わせて伝えやすくコーディネートしてあげるカードの1つ、とおっしゃっていました。

内沼:みんなその通りだと思いますね。あまりつけ加えることがないですが、ぼくの場合は「後づけ」というのがあります。

神谷:なるほど。やはり肩書き1つで表すのがむずかしいということで、それは幅広く活動されているということが背景にあると思います。それでは、内沼さんの活動をさかのぼってうかがっていきましょう。

katagaki4-2

食えないミュージシャンにはなりたくなかった

神谷:現在の活動はご存知の方も多いと思いますが、それよりもっとさかのぼっていくと、実はもともとミュージシャン志望だったそうですね。

土屋:それはいつごろの話ですか?

内沼:中高、大学2年ぐらいまでですね。高校生のときは特に、ミュージシャンになりたいと思っていました。

土屋:仕事にしようとしていたんですか?

内沼:そうですね。大学を選ぶときも悩みました。最初は、美大や音大に行った方がミュージシャンになりやすいのかもしれないと思うじゃないですか。でも、自分の知っているミュージシャンの大学を調べると、意外とふつうの四年制の大学で、文学や経済をやっていた人もいっぱいいることがわかったんです。ぼくは食えないミュージシャンには、あまりなりたくなかったんですよね。単純にそれは怖いじゃないですか。だから、音楽をやるのはいいけれど、バランスがとれている状態をすごく考えていました。

高校生のときは、もちろんまだインターネットの概念を感覚的にわかっていたわけではないのですが、やっぱりこれからの時代は、情報がマイナーなものでも好きな人は遠くにいて、その人たちに伝わればちゃんと食べていけるはずだということは、なんとなく思っていたんです。ぼくの中では、小山田圭吾さん(Cornelius)がそれをやっていると感じました。当時彼はポリスターというレコード会社の中のレーベルの1つとして「トラットリア」を主宰していたんです。そこではマニアックな音楽をつくっても、海外の隠れた名盤を再発しても、ちゃんとムーブメントの中で受け入れられていた。その後もどんどん世界に出て行き、いろいろな人とコラボレーションしている。

ぼくは1980年生まれなので、CDの本当に全盛期……1990年代後半の300万枚売れるCDがあったような時代です。メジャーレーベルに所属してたくさん売るという主流の考え方がある一方で、ぼくは自分の音楽を追求しているように見えて、ちゃんと届くべき人に届けることや、生きていく方法について考えているようなミュージシャンのほうに関心がありました。なので、美大や音外に行って作品のことを追求するより、届け方や生き方について考えるほうがよい気がして、商学部がある大学に行きました。

土屋:商学部にした理由は?

内沼:食えないのが嫌なので、ビジネスの勉強をしたいということでした。

神谷:すごく現実的なところを考えていたんですね。

内沼:やっぱり自分の将来ですから、考えましたね。ミュージシャンというとどうしても、博打だなと感じていたので。

土屋:音楽をやる上で、商学部で学んだことをいかしてなにかやろう、という部分はありましたか?

内沼:音楽はやってましたが、結局ミュージシャンという道を考えていたのは、せいぜい大学1、2年ぐらいまでだったので、学ぶまでもないころで終わりましたね。

土屋:どうして音楽を辞めようと思ったのですか?

内沼:自分がつくっている音楽があまりいいと思えなかったというか、あるとき、ふと気づいたんですよね。すごく頑張ってつくっていましたが、単純に音楽的にも録音のクオリティとしても、なかなか向上しない。自分がつくった音源と、自分が好きで聞いている音楽を比べて、自分ならどっちを買うかなと思ったとき、好きで聞いている方なんですよね。すごくざっくり言うと、才能がないなと思ったんです。もちろん、本当にミュージシャンとして生きていく人は、きっとそんな壁に何度もぶつかり、何度も越えるのだと思います。今となっては、それを越え続けた人がなるのだ、というのがわかりますが、当時のぼくは早々に諦めてしまいました。

未完に終わった、ノンブルがすべてURLの雑誌

土屋:音楽を諦めた後は、なにか新しい興味が生まれたんですか?

内沼:諦めた後に新しい興味が生まれたというよりは、音楽からだんだん離れていった理由にもなっているのですが、次は雑誌でした。
高校時代は1時間目から6時間目まで授業を受けて受験勉強をして、さらに音楽をやっていたら、それ以外のことをやる時間はあまりなかったんです。ところが大学生になると時間があるから、少しずつ音楽だけでなく文学や現代思想、映画、美術、演劇など、周りの人がやっていたり、詳しい人がいたりして、すこしずつ情報が増えていき、自分の中の興味がいろんな方向に向かっていきました。自分でもいろいろなことをやって吸収したり、人から教えてもらったりしているうちに、音楽にこだわって聞いたりつくったりしていくことより、それを含むカルチャー全般に関わっていきたいと思うようになったんです。それで途中から雑誌に興味が移り、雑誌をつくるサークルに入りました。そのサークルで上級生が抜けて編集長になる可能性もあったのですが、すでにあるその雑誌の枠組みの中で編集長をやるということが、どうしてもイメージが湧きませんでした。自分でゼロからつくりたいと思い、辞めて自分でサークルをつくりました。

土屋:そこでつくっていた雑誌が、かなり特殊だったそうですね。

内沼:はい。ただ、2年ぐらいずっとつくっていたんですけど、雑誌自体は完成しませんでしたね。ちょうど時代的に、みんなが個人のホームページをつくりはじめるころだったと思います。ぼくは大学1年のとき、たまたまHTMLの授業があり、そこで簡単なコーディングをできるようになったこともあり、インターネットに興味を持ちました。なので、ぼくらがつくろうとしたのは紙の雑誌でしたが、紙にはほとんど文字がなく、ビジュアルブックみたいな感じでした。その代わり、ノンブル(ページ数の部分)が全部URLになっていて、そのURLに飛ぶとゲームやテキストの長いコンテンツがあったり、ムービーが流れたり、という雑誌をつくっていました。途中まででしたが。

土屋:かなり挑戦的な内容だったんですね。完成しなかったのはどうしてですか?

内沼:1年ぐらいずっとつくっていましたが、アートディレクターだったぼくの友人のパソコンのハードディスクが、途中でクラッシュしてしまったんです。大学生でお金もなく、外付けにバックアップを取るという発想もなかったので、データが丸ごとなくなりました。もちろん途中までつくっていたので、つくり直す方法はいろいろあったと思います。でも仕事ではなかったし、責任感もそこまでなかったんでしょうね……。同時期にこのサークルでクラブイベントを主宰したり、美術展に向けて作品をつくったりするようになったので、明確に締め切りがあるそれらと比べて、終わりのないプロジェクトだった雑誌からはこれをきっかけにみんな自然とやる気が失せていってしまい、完成しなかったんです。

土屋:その雑誌がもし発売されていたら、結構反響が出ていそうですよね!

内沼:そうですかね、出ていたらよかったのですが……。実はそのとき失効したドメインを、去年かおととしぐらいに取り戻したので、今ドメインはあるんですよ。

土屋:おっ、ということは、なにかやるんですか?

内沼:今のところ、なにもやる予定はないです。でも当時の仲間と集まると、いつかなにかやろうという話はするので、今後やることがあるかもしれませんね(笑)。

katagaki4-3

自分が出版業界をなんとかできるかも、という妄想

神谷:大学のときは、本や雑誌をつくる側がメインだったんですね。

内沼:大学2、3年ぐらいまではそうでした。その雑誌は結局出ませんでしたが、つくっていたころ、本屋さんに「出たら売ってください」という感じで相談に行ったりしていたんです。そのときにはじめて、本というのは、つくって本屋さんに持って行けばすぐ売ってもらえるわけではない、というのがわかったんです。本屋さんがこんなにたくさんあることや、取次があり、流通をやっているということもわかりました。ちょうどそのころに、ジャーナリストの佐野眞一さんの『だれが「本」を殺すのか』(プレジデント社)がベストセラーになっており、読んで関心を持ちました。出版業界の裏側、取次がどのようなことをやっているのか、今出版業界がなぜ不況と言われているのか、ということについて追いかけた本です。ほかにも出版業界の本をいろいろと読みました。

最初に雑誌をつくったときは自分の関心の範囲が広かった時期なので、「なんでも入れられる箱としての雑誌」ということに興味があり、それをつくっていく編集者にすごく関心を持っていました。でも、自分がつくろうとしていた雑誌が結局1年かけても完成できなかったこともあり、編集者としてやっていけるのか自信がなくなったんですよね。けれど大学3年ぐらいのときに、世の中にはいい本がすごくたくさんあるけれど、流通や本屋など現場側にたくさん問題があるということを知ったことで、それをなんとかする側の方がおもしろそうだと思うようになったんです。そういったことがきっかけで、雑誌をつくる側より、それを届ける、売る、人に渡すというところで仕事できないだろうか、と考えました。大学生なので、世の中をちょっとなめているところもあり、佐野眞一さんの本をはじめ出版業界本のようなものを数冊読んだだけで、自分が出版業界をなんとかできるかもしれないと妄想するようになったんですよね。今思えば大変おこがましい話ですけど。

土屋:問題点ははっきりしているぞ、と感じたんですね。

内沼:そうですね。なにができるかまでははっきりはしていませんでしたが、既存の書店や取次や出版社、図書館などにできていないことが山ほどあるということはわかったので、とにかくまずはその隅っこでなにか別のことをやったらおもしろいだろうと思いました。

出版業界の内側に入らず、外側から関わっていく

神谷:それで大学卒業後、本に携わる会社に就職したんですね。

内沼:某外資の国際見本市の主催会社に入りました。出版業界を変えたいと思ったときに、大手の出版社や取次や書店に行ってしまったら、そのシステムの中に組み込まれていくのではないかと思ったんです。

土屋:大手の出版社や取次では、出版業界の中心すぎるということでしょうか。

内沼:たとえば、大手出版社に入れたとして、雑誌の編集部に配属された場合、編集部の一番下っ端の編集者という立場から出版業界を変えるまでには、時間がかかりそうですよね。内側から変えていくのは大変そうだから、外側から出版業界に関わっていく仕事を探して、見つけた唯一の会社がそこだったんです。

でも、入ってみてはじめて、会社に入ると気の合わない人ともやらないといけない、ということに気がついたんですね。それまでは大学生の任意の集まり、ましてや自分がつくったチームにいましたから、中心にいるのは仲のいい友人ばかりだし、後から入ってくる人も感覚が近い人ばかりだったわけです。自分がそういう環境にいたことに、気づいていなかった。

つまりすごく仲のいい人たちとどうでもいい仕事をするのと、すごく気の合わない人たちととても意義深い仕事をするのでは、どちらが楽しいかと言うと、たぶん前者なんですよね。でも、ぼくはその辺りがよくわかっていなくて、会社の雰囲気は合わないなとわかっていたのにそこを重視せず、仕事の内容でしか見ていなかったんです。しかも幸いなことにというか不幸なことにというか、同期入社予定のメンバーとだけはすごく仲良くなれた。だから志高く入社したのですが、入ってみたらすぐに、その会社の雰囲気や仕事の進め方が、すごく辛くなってしまった。

一度会社に入ると、周りから「3年は勤めろ」と言われるんですよ。でも、ぼくは4月入社なのにもう5月には辞めることを考えていました。よく考えてみると、「3年は勤めろ」という言葉には「会社の都合」が多分に含まれているんですよね。せっかくコストをかけて採用した新入社員にすぐに辞められてしまうと、単純にペイしないわけです。ぼくは6月生まれで、その時ちょうどもうすぐ23歳になるというところだったので、3年勤めてしまうと26歳。けれど、25歳までは第二新卒という扱いでもう一度就職活動ができます。それならばまずは2年、25歳になるまで自分一人で何ができるかやってみて、ダメだったらもう一度就活すればいいだろうと考え、早めに辞めることにしました。

土屋:では、完全に独立しようと思って辞めたんですね。

内沼:はい。ただ、ベンチャーを起業するわけではないし、フリーランスになるという発想もなかったので、いわゆる独立というニュアンスとは、だいぶ違っていたかとは思います。とりあえずバイトをしながらやっていこうと。大学時代にもバイトをしながらいろんな活動をしていたので、その延長でいつの間にか食べているというタイプの大人がいるということも、なんとなく知っていたわけです。学生雑誌が前身の出版社とかもあるし。自分になにができるかはわからないけれど、辞めようと決心しました。

土屋:さっきおっしゃっていたことを考えると、辞めて、別の会社に行こうというのは考えられなかった。

内沼:なかったですね。それはもう意味ないと思っていて、転職というのではなく、とにかく大学生のころの延長に戻るなら、いま戻ろうという感じでした。

古本1冊紹介するために、わざわざあらかわ遊園で撮影

神谷:本屋でアルバイトをはじめたのは、いつごろでしたか?

内沼:会社を辞めてすぐに、しばらく撮影隊の運転手のバイトをしてからですね。メールマガジンを購読していた千駄木の往来堂書店で、たまたまアルバイトの募集が開始されたので、応募したという感じです。本屋の時給は安いですが、大学時代からお金のいいバイトをたくさんやって、音楽の機材をかったり、雑誌をつくるためのお金を貯めたりしていましたから、ほかのバイトを掛け持てば十分食べていけると考えました。はじめはクレーム処理のテレアポのバイトをしていて、その後はネット広告の会社でHTMLや文章を書き、デザインもするというバイトをしながら、古本を売ったりしていました。

土屋:往来堂書店は何年ぐらい勤められたんですか?

内沼:5年ぐらい勤めたと思います。ただ、最初こそシフトに週3、4回入っていましたが、もう最後の方は本当に月3回ぐらいしか入っていませんでしたね……。

土屋:その辺りは自由だったんですね。

内沼:自由にさせてもらえていたのは、本当にありがたかったです。往来堂で働いていた後半、ぼくはもう洋服屋の本をセレクトする仕事をやっていました。その仕事をするのに、往来堂で入ってくる新刊情報がとても役に立つんですよ。ほぼシフトに入れない状況でも、続けさせていただいた店長には本当に感謝しています。往来堂のバイトに行くと、出版社から新刊情報のFAXなどが積んであったので、休み時間にそれを全部見てメモしたりさせてもらっていました。

神谷:往来堂時代はもうブックピックオーケストラの屋号でやっていたんですよね?

内沼:そうですね。ブックピックオーケストラは、ぼくが会社を辞めて往来堂に入るのとほぼ同時に大学時代に雑誌をつくっていた仲間に声をかけて3人で立ち上げたユニットで、最初はネットの古本屋でした。

土屋:そうなんですね。どういったやり方をされていたんですか?

内沼:2003年ぐらいの話ですが、Amazon自体はすでに日本にも上陸していましたが、いわゆる古本のマーケットプレイスがまだ日本では始まっていなかった時代でした。なので、古本で欲しい本があったらGoogleなどで検索すると、個人がつくっている古本屋サイトの目録にヒットして、直接そこに注文するのが主流でした。サラリーマンの副業として、ブックオフで買ってきた本をネットに上げて古本屋をやれば儲かる、みたいな本がすでに何冊も出ているぐらいのころだったので、ぼくらは後発でした。そんな中で同じことをやってもしょうがないから、なるべく自分たちがおもしろがれることをやろうと話して、「古本屋Webマガジン」というのが当初のタグラインでした。要は、ほかの多くのサイトがただ目録をアップしていたり、せいぜいちょっとした紹介文を書いていたりしているだけの中で、古本を1冊紹介するだけなのに、わざわざあらかわ遊園に行って遊具の上で写真を撮ったり、長い日記のようなコラムを書いたりして、テキストサイトだけど古本も売っている、みたいなことをやっていた。そうしているうちに結構ほかのネットの古本屋やその周辺の人たちから、おもしろがってもらえるようになって、いろんなイベントに呼んでもらえるようになりました。

ギャラリーの一角とか、ネットの古本屋だけが集まる古本市とか。たいした知識があるわけでもありませんでしたが、変なサイトをつくっていたおかげで、結構声をかけてもらいました。その中でたまたま、洋服屋の中に本の売り場をつくるというお話をいただいたんです。そこから本のセレクトの仕事がはじまったという感じです。

「サガンの墓」がきっかけで立ち上げたnumabooks

神谷:その後、numabooksというのはそのブックピックオーケストラの流れで立ち上げたのでしょうか? ここまででもかなり、いろいろ活動されていますが。

katagaki4-4

内沼:ブックピックオーケストラは学生の頃の仲間とはじめたチームだったので、だんだんメンバーも増えていきました。同時に、いろいろなプロジェクトに呼ばれるようになってきて、「ブックピックオーケストラらしさ」みたいなものができていったんですね。

フランスの小説家サガンが亡くなったときに、「サガンの墓」という作品をつくる企画をぼくが出しました。新潮文庫のサガンの本は背がピンク色なのですが、古本だとピンクの色が濃かったり薄かったり、いろいろなんです。そのサガンの古本を500冊ぐらい集めてグラデーションにして固めて墓をつくったら、すごくかっこいいのではないかと。そうしたら、ほかのメンバーに「それはブックピックっぽくないね」と言われてしまった。自分が代表をしている団体にそういう「らしさ」ができてきたことは、とても喜ばしいことです。けれど反面、フットワーク軽くやっていくには、少し不自由でもあったんですよね。

ほかのメンバーはほぼ学生か会社員でしたが、ぼくはフリーターとフリーランスの間くらいの感じでした。本屋でアルバイトをしながら、業務委託で洋服屋の本棚のセレクトをして、その傍らでたまに雑誌に文章を書かせてもらったり、カフェのメニューのデザインをしたり小さなお店のWebサイトをつくったり、というような感じの仕事をしてなんとか食べて、一方で作品を作ったり詩を書いたり、影絵の劇団とか創作おにぎりユニットとかをプロデュースしたり、お金にならない活動をひたすらしていました。ちょうど自分一人で動く機会も増えていたので、じゃあそういう作品も個人の名義でつくろうかな、ぐらいの気持ちでした。サガンの墓は結局つくらなかったのですが、それができなかったことは、ひとつのきっかけとしてよく覚えています。

あと、現代表のほうがなんというか、しっかり者だったんですよ。前に出て話すのがぼくでも、増えていくメンバーを実質的にまとめていたのは彼だった。

土屋:マネージメントをする人が別にいたんですね。

内沼:そうなんです。彼が代表のほうがいいだろうな、という気持ちもずっとあったので、まず代表を代わってもらって、ぼくはひとりでnumabooksという屋号でも活動するようになった。だから、会社として立ち上げたとかでは全然なく、本のセレクトを含むフリーランスとしての仕事と、「ブックピックオーケストラ」でやってきたような実験的な活動のうち、ひとりでやるものに屋号をつけてみました、みたいな気持ちではじめました。このあたりから現在の、屋号はnumabooks、肩書は「ブックコーディネーター」と「クリエイティブディレクター」、という状態にだんだん落ち着いて、今に至ります。そのはじまりが2007年、26歳か27歳くらいのときだった、ということですね。

(2016年1月22日@amu/写真=後藤武浩)

前半のお話からは、好きなことをやる一方で、実際に食べていけるのかどうかという現実的な目を常に持って歩んできた様子がうかがえました。そういった俯瞰的な視点や、分類しづらいような本がおもしろい、自分自身もそういう存在になりたいという思考は、トーク後半で語っていただいたご自身の仕事観にもつながってきます。

内沼さんにとって、仕事とはなにか。どんなことにやりがいを感じるのか。今まさに、なにを思って仕事をしているのか……。レポート後半で紐解いていきます。公開までしばらくお待ちください!

amu

未来を編む

「ライフ 」「ビジネス 」 関連の記事を
もっと読む