EVENT REPORT

早稲田大学合同展示 Grayscale展レポート

【著者】山本郁也

EVENT REPORT

早稲田大学合同展示 Grayscale展レポート

【著者】山本郁也

2018年2月10日から2日間、恵比寿のamuにて早稲田合同作品展示「Grayscale」が開催されました(前日2月9日には草原真知子氏、橋田朋子氏、ドミニク・チェン氏によるディスカッションも行われた)。今回は、情報設計やUXデザイナーとして数々のサービス開発や運営に携わる山本郁也氏が、この展示を通して見えた「現代におけるGrayscaleの必要性」についてレポートします。

OVERVIEW

2018.02.09(金) ~ 2018.02.11(日)

著者:
山本郁也

INDEX

  1. Grayscale こそが私たちの世界である理由
  2. 複雑な世界を、複雑なままに、真正面から受け止める力

Grayscale こそが私たちの世界である理由

「Grayscale」、この言葉を聞いて筆者が最初に思い出したのはフランスの哲学者ジャック・デリダの「生の哲学」である。デリダは生死について語るとき、「生きている・死んでいる」というような言い方をしない。デリダは「生き延びている」という言い方をする。我々は「生きている」のではない、「生き延びている」のだと。つまり、「生」と「死」の間に「生」があるのだと。

勝利と敗北、生と死、善と悪、0と1、友と敵、光と闇、天と地、右と左、文系と理系・・・、世の中のあらゆる出来事は大抵二つに区別される。しかし、当たり前のことながら、世界はそんなに単純ではない。「勝負に勝って、試合に敗ける」こともあれば、「昨日の敵は、今日の友」だったりもする。このように、「二つの極の”間”」こそが世界なのである。

ドミニク・チェン氏はディスカッションの中で、「曖昧なものを排除するという力が最近強くなっている。それに対して違うもの、オルタナティブなものを提示したいという気持ちがあった。」と語った。クリエイティブ・コモンズにも関わるドミニク・チェン氏らしい言葉である。(クリエイティブ・コモンズ*1 創始者のローレンス・レッシグもよく「バランス」という言葉を使う。まさに「曖昧」のままでいるということである。)

図1

人間は「曖昧」なものを正面から受け止めようとしない。それどころか、「うやむや」や「あやふや」といった言葉で否定し、排除しようとする。そんな世の中に対して逆に否を突きつけたのが今回の展示だ。

それを象徴するように、実際の展示では、「世界は、本当はこうなのだ」と言わんばかりの作品が並んだ。ここでは作品の細かい紹介はしないが(作品紹介ページはこちら)、作品のどれもが、見た者の頭を悩ませたことだろう。なぜなら、作品それぞれが、「これまで人間が目を背けてきた世界」を表現しているからだ。それほどまでに、本当の世界を捉えるということは難しい。しかし、それが世界なのだ。

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*1 クリエイティブ・コモンズ
著作物の適正な再利用の促進を目的として、作品を公開する作者が「この条件であれば作品を自由に使って構いません」という意思表示ができるようにするための様々なレベルのライセンスを策定、普及を図る国際的非営利組織と、そのプロジェクトの総称。クリエイティブ・コモンズが策定したライセンスは「クリエイティブ・コモンズ・ライセンス」と呼ばれる。

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複雑な世界を、複雑なままに、真正面から受け止める力

ここで一つ疑問が生まれる。いつから私たちは世界を単純化するようになったのか。そもそも、日本人は「2つの極の”間”」、つまり、「Grayscale」をずっと許容してきたはずなのである。

例えば、旧約聖書では神が天地を創造したのに対し、古事記では混沌とした天地から「だんだんと」神が誕生した。
例えば、日本を代表する弦楽器である三味線では、はっきりと決まったチューニングは存在せず、指で押さえる場所を「勘所」と呼ぶ。
例えば、神社建築などでよく見られる屋根は「てりむくり」と呼ばれ、反りと起りという相反する曲線を連続させている。

これらはまさに日本的な「Grayscale」である。

また、国語学者の大野晋は『日本人の神』(新潮文庫、2001)の中でこう語っている。

「日本の緯度が北緯三五度を中心とし、空中の湿気が多い結果、実は日本では太陽の光が空気を黄色っぽくさせているという。だから景色が鮮明に見えず、物を明晰に見極める態度が養われない。(中略)日本の何処にも、何時にもこの明晰は存在することがない。日本ではむしろ境界不鮮明にすることを美徳とする。」

このように、日本人はいつの時代も「Grayscale」の中で生き、「Grayscale」を許容し続けてきたのである。

しかし、近代に入り、製品やサービスが、消費者(あるいはマーケット)のニーズという神話に無自覚に従い続けた結果、世の中は「わかりやすい」ものばかりになってしまった。言ってみれば、特に21世紀のビジネスは「わかりやすさ競争」だった。そして、それは今でも続いている。つまり、「白」こそを美徳とし、「黒」を可能な限り排除してきたのだ。そしてそれは必然的に、「Grayscale」の排除へと向かう。
言うまでもないが、消費者の声を聞くことと、無自覚に従うことは別物である。今回の展示はこういった現代の産業の在り方への問題提起でもあったように思う。
私たちは知らず知らずのうちに、欲望に敗北し、世界の本質を見失っていたのかもしれない。今回の展示はそんな手痛い気付きを与えてくれた。
いま私たちに足りないものは、複雑な世界を、複雑なままに、真正面から受け止める力なのだ。

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Grayscale展には、白か黒か、敵か味方かなどの二択は存在しない。作品のどれもが、白でも黒でもあり、敵でも味方でもある。カルネアデスの問い*2 に答える必要はない。

世の中に蔓延る二択は、常に暴力的である。今回展示された作品群の持つその曖昧さによって、救われた人も多いことだろう。

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*2 カルネアデスの問い
古代ギリシャの哲学者カルネアデスが立てた問い。難破した船から投げ出された人が、海上に浮かぶ舟板を別の人から奪って生き延びるのは無罪(シロ)か有罪(クロ)かという問題。

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