EVENT REPORT

消費されない幸福ーー「日本的ウェルビーイングの可能性」vol.6

【スピーカー(研究参加者)】神居文彰、ドミニク・チェン、渡邊淳司、安田登、坂倉杏介

【スピーカー(特別ゲスト)】石川善樹

EVENT REPORT

消費されない幸福ーー「日本的ウェルビーイングの可能性」vol.6

【スピーカー(研究参加者)】神居文彰、ドミニク・チェン、渡邊淳司、安田登、坂倉杏介

【スピーカー(特別ゲスト)】石川善樹

2017年3月25日、amu にて JST/RISTEX「人と情報のエコシステム」採択プロジェクト「日本的 Wellbeing を促進する情報技術のためのガイドラインの策定と普及」のキックオフ・シンポジウムが開催されました。レポート第6弾は現代の日本人が送っている人生における日本的ウェルビーイングのあり方についてのパネルディスカッション後半と質疑応答の様子をお送りします。

OVERVIEW

2017.03.25(土)

スピーカー(研究参加者):
神居文彰(平等院・住職)、ドミニク・チェン(株式会社ディヴィデュアル共同創業者)、渡邊淳司(NTTコミュニケーション科学基礎研究所)、安田登(能楽師・ワキ方・下掛宝生流)、坂倉杏介(東京都市大学准教授)
スピーカー(特別ゲスト):
石川善樹(予防医学者、Campus for H共同創業者)

INDEX

  1. 紀元前に考えられていた「人生の時間」
  2. 見えないものの視点、見えないものの気持ち
  3. 「思い」と言語を蓄積するテクノロジー
  4. どこまでが「思いやり」なのか?
  5. 「つながり」の強弱が導く幸福
  6. ウェルビーイングが生まれる体験の構造

紀元前に考えられていた「人生の時間」

神居:私は安藤先生、渡邊先生と一緒に研究をさせていただいてます。先ほどの安田さんの『夢十夜』は非常に面白く拝見しました。私の恩師の映画監督の実相寺昭雄先生が亡くなられたあとに公開された『ユメ十夜』(実相寺昭雄氏とその他10名の監督によるオムニバス)という作品がありました。また、実相寺さんは平等院鳳凰堂でもロケをしているのですが、ロケ後にあの鳳凰堂を燃やしたいと言いました。私たちはその気持ちがすごく分かるのです。
実体あるもの、物質としてあるものは必ず失われていくということを、私たちは知っています。以前、ゴッホの絵を所有している方がその作品を「燃やしたい、自分のお墓まで持っていきたい」と発言し、日本中から猛批判を受けました。でも、アーティストは自分の美意識や芸術性を完成させるために作品を燃やす(壊す)ということをかつてやっていたのです。
実相寺先生のお話のような「燃やしてしまいたい」「残したい」という相反する2つのこと、どのように受け止められましたか。私はさまざまな文化財の修理を四半世紀続けてきましたが、その文化財の補助をする文化庁がいよいよ京都市に移ろうとしているところで、そうした実相寺先生の思いについては大いに議論されるべきだと思っています。
今の文化庁にとって観光とは、英語の「Sightseeing」を指している。しかし、私たちは観光を「Tourism」として使ってきました。日本の観光のはじまりはいわゆる「巡礼」、自分探しだったのです。先ほどからいろいろなお話が出ていますが、それらは古代・中世・近世ずっと論じられてきたことばかりです。
先ほど人生100年を第一期と第二期の2つに分けるというお話がありましたが(参照:ウェルビーイングへのアプローチ)、そこからさらに遡った2500年前、仏教はどうしていたのでしょうか。アーシュラマという言葉がありますが、これは人生を4つの時期に分けるとらえ方です。学びの時期である学生期、家を持ち家庭をつくっていく家住期と林住期。さまざまな社会奉仕をして放浪する遊行期の4つです。これはブッディズムやヒンドゥーなど、中央アジアを含めて展開されていった1つの人生の時間ととらえています。
ブッディズムは、時間を「未・現・過」という3つで表します。過というのは過ぎ去りし時、今この瞬間もそうです。「未」とは未だ来たらざる時。この順番でわかるように、「今」をロジックの中に非常に上手に落とし込んでいます。永らく「今」というのは一体どういうことか? という議論がありました。「今」というのは、死の瞬間が伸びているだけかもしれないし、はたまた個々の時間が集まっているだけかもしれない。
古い時代には人生の目的が3つありました。1つが、財産という意味の「アルタ」です。現在の幸福度を探るためにも使っていた。もう1つが性愛という意味の「カーマ」。愛していくことや家庭をつくっていくこと。最後が宗教的な行いという意味の「ダルマ」。日本人は宗教という言葉を嫌う方も多いですよね。宗教嫌いでありながら、世界の民族でこれほどお墓の好きな民族はいません。

見えないものの視点、見えないものの気持ち

宗教学で神という文字は「しん」と読みます。神(しん)というのは古代中国語では「シッ」と発音する。これは、雷がゴロゴロと鳴る寸前のあの「シュッ」という音です。「シッ」という音が音(おん)の中でも品がある、徳を持っているとされていました。ですから、神が行うものは徳のある政治「徳政」と言われていました。為政者は行うことに徳がないといけないということ、その神(しん)の代理として行うという意味がこの言語の中に込められているんです仏教とキリスト教の比較でいわれるのは、キリスト教は啓示の宗教、仏教は気がつくということ、すなわち「目覚め」の宗教です。「啓示」と「目覚め」には大きな違いがあります。
先日、遠藤周作が原作でマーティン・スコセッシ(Martin Scorsese)監督の映画『沈黙 -サイレンス-』(2017)を見てきました。それについて1つだけ言いたいことがあります。神がなにを語ろうとして語れなかったかではなく、信者たちは(神は)本当に転んでほしかったのか、それとも、踏んでほしくなかったのか、という視点。信じているものや目にみえないものに対しての「気持ち」というのをだれも論じていなかったように思いました。私たちはそれを、これまで長い時間の中で探し続けたのではないかと思います。目に見えないもの、対象がないものでも、人は感じられるということ。私たちが考えていく幸せというのは、きっとそんな中で探していくこともできるのではないかなと思います。

DSCF7876

「思い」と言語を蓄積するテクノロジー

私たちは研究者でもあるので、今日の話のさまざまなことをモデル化して実現するための理論を構築します。キリスト教の「テン・コマンドメンツ(十戒)」に対し、仏教では「シーラ(戒)」があります。キリスト教では神が「人を殺すな」と命じるところを、仏教では「育てろ」と説く。キリスト教だと「盗むな」というところを、仏教では「与えよ」と。「嘘をつくな」は、「真実の言葉を語れ」と説く。日本ではこれが規範になっていたわけです。
法律の視点では、慣習、地域、場の問題があります。ですから日本的なものを構築していくときに、その慣習が法律にも関わっていくでしょうね。日本は世界の中でも例を見ない「来世観」を持っています。それは天国だったり、英雄が行く世界であったり、神との約束をして行く世界でもない、浄土や極楽です。世界は劣悪で、罪悪によって構成されています。しかし、私たちはそうならないように守ってきた。なにが言いたいかというと、先ほどからのウェルビーイング、すなわち幸せは、自立性ということを含めると、全人口の中に2割いるという「必ずだれかの補助や助けがないと生きていけない人々」の存在を忘れてはいけないはずです。この人間洛中洛外図に描かれた幸せというのは、自立できる8割の者のためだけのものです。でも、現実はそうではありませんし、私たちはそれを知っていたと思います。
デジタルというのは非常にはっきり物事を映しますが、古代もそうだったのでそういう意味では親和性が高いかもしれませんね。現代で認識される身体性と心は、仏教では身体性と心だけでは表せません。身体性の「身(み)」、言語性の「口(く)」、意識または翻訳しにくいスピリチュアルな意味を持つ「意(い)」。この、「口(く)」というのはコミュニケーションのことではなく、実際に口に出す行為を指します。
だから、空海は三密*1 が一致していくことであったり、インドでは非常に言語に対して鋭敏な感覚をもっていた。SNSでは、この「言葉に出す」という祈りのようなものが、消費されるものであってほしくないと思っていました。
また、観光も同じく消費ととらえるのは非常に問題だなと思います。実はかつての日本人には「言語」は、消えていくものではないという理解があった。目に見えないものとの関わりであったり、「言霊」という言葉であったり、蓄積されていくものだと考えられていました。ところが、今のSNSは言葉がただ消費されています。だから対象を欠いた状態で生まれる「思い」と言語をデジタルで残し、良い形で蓄積していくところに新しいウェルビーイングが生まれるかもしれません。そうしたことを約束事として構築していく必要があるんじゃないかなと思いました。これが次の議論につながればいいなと思います。今日はありがとうございました。

—–

*1 三密
仏教用語。仏の身・口・意の3つで行われる行為は衆生には分からないことから「密」とされる。しかし、衆生の身・口・意も本質的には仏の三密と同等とされる。

どこまでが「思いやり」なのか?

ドミニク:神居住職、どうもありがとうございました。「オブジェクトレス・コンパッション」、このオブジェクトレスという言葉には「対象がない」という意味もありますが、object には「目的」という意味もあります。ですから、先ほど芝の家でも無目的性という言葉が挙がりましたが、「無目的である」ということがすごく中心的なヒントになるのだと思いました。ありがとうございました。
では、会場のみなさんから、質疑やコメントを受け付けます。

参加者1:私は、東京で料理長をやっている者です。石川先生にお聞きしたいことがあります。ウェルビーイングの中で思いやりが非常に重要だというお話がありました。私は料理人なので、人が食べるという行為とともに、材料そのものも目の当たりにします。牧場では料理の材料となる子牛たちがよくお互いの身体を舐め合っています。牧場主によると、食べ物が豊潤にある平和な環境下で健康な子牛だけがとる利他的行動だそうです。あるいは、植物の中でも植物間コミュニケーションがあるというのが科学者の間で最近取り沙汰されている。ある農園で植物が虫に齧られると、その情報を香りの分子に変えて、その農園にいる同じ遺伝子を持った植物に報告しているということが段々分かりはじめてきたようです。
これらのことも、動植物から学ぶ コンパッションかもしれないと思いました。直接に自分のためというわけではなく、次の代や周りの個体に波及していく行動というのは、それが人間の中にも動植物的レイヤーとして少しあるような気がします。料理などの材料を使えば使うほど、人間の中にも潜在的な意識下のものとして、思いやりがプログラムされているのではないかなと思うときがあります。
そして、「相手を見て話をしなさい」と親に教えられますが、それは争いをせずに生き残っていくために伝えられていることではないかと思います。そこで伺いたいのが、どこからどこまでを「思いやり」と定義するのかということです。

8516101128_f43ea80843_h

石川:動物が他の動物を襲っているのを見るだけで涙を流す私の母親は、なぜフラワーアレンジメントの時には嬉しそうな顔をして花の命を切り刻めるのかと。動物が可哀想と言いながら花の命を切り刻む母にこの大いなる矛盾を尋ねたら、「好きなものは好きなの!」と言ってブチ切れました。そこから僕が学んだのは、好きなものを好きでいることが一番大事だということです。人はそんなに合理的じゃない。すべてに対して「可哀想」と思うとなにも食べられない。思いやるとは? 可哀想とは? そういうことをちゃんと考えたい。

渡邊:これは注意が必要なことだと思います。思いやりは、誰かを思いやるという意識的な活動ですが、動物の本能的な身体反応を我々のほうで「思いやり」と解釈しているだけかもしれません。たとえば、猫がじゃれあっているのを見た人が喧嘩していると勘違いして助けてあげることもあります。植物の話も同様です。つまり、なんでもかんでも「思いやり」という言葉に帰結させることが本当に正しいのか。本能として起きていることと、意識的に判断するのではちょっと違う話ですし、その辺を一言で言うのは僕は躊躇します。

石川:別の視点として「進化とはなにか」と言ってもいいかもしれないですね。動物なり植物なり、僕らがやっていることはなにかの進化に導かれてやっている。進化論の本質は弱肉強食ではなく適した者が生き残り、適さなかった者たちは多様化して生き残るということです。弱い者たちが別の形に姿を変えて、全体的に多様化することでみんなが生きられるのだと思います。それが進化論のポイントで、いま適している人たちはそのまま残っていくけれど、いま適していないものたち、植物とか動物は今後どういう風に姿を変えるんだろうかという視点から見ると面白いかもしれないですね。

「つながり」の強弱が導く幸福

ドミニク:ありがとうございます。他にはいかがでしょうか。

参加者2:面白い話をありがとうございました。2点あります。1つは、ウェルビーイングの設計の中で人生設計のような話があったと思いますが、僕はそういうものでウェルビーイングが規定されると思いません。常に瞬間的な「今」で規定されると思います。自分がどれだけ幸せか、みたいな、自己幸福度の最大化を常に考えた結果、納得できた人生を歩むことができるんじゃないかと思います。もう1つは、「無目的な関係性」という話題があったと思います。自分は3D生態学・生物学などを研究しています。利己的な食う・食われるという関係ではなくて、集団としてまとまりがあり、なおかつ恒常性をもって持続的に発展していくネットワークあるいはそういった相互作用というものは、いまだ数理的な解明がされていません。そうした点で、「無目的な関係性」はとても興味深いと思いました。

ドミニク:ありがとうございます。長期的な、ハピネス、ウェルビーイングのデザインというよりは今の瞬間を微分し続けて、値を最大化し続けるのが自分にとってはリアリテイがあるということですよね。

渡邊:それを問いかけること自体に意味があると思います。多分、人によっては現在のことではなく、未来に報酬があることをウェルビーイングだという人もいると思います。自分にとってのビッグピクチャーを描くきっかけになること、誰かが「答えはこれです」と示して、それに従うだけにならないことが重要だと思います。問いかけをしていくような技術や仕組みを考えるべきなんじゃないかと思っています。

石川:最近、非正規労働者の研究をしています。雇用主からすると「彼らは本当にやる気がない、夢もなにもない」と言います。実際に非正規労働者に話を聞くと悟ってるような方が多いんです。「夢や目標はあるんですか?」と聞くと「いや、ないです」、「普段どんなことを考えてますか?」と聞けば「1日1日を過ごすだけです」と(笑)。若者はやっぱり「今」というこの瞬間を最大限まっとうさせるんだという風であって欲しい。

安田:能楽者も同様に夢とかないですね。この瞬間においても。

神居:今のお話の中で3点気になったことがあります。SNSでは簡単に人とつながることや情報発信が容易になった一方、その「つながり」の持つ意味が複雑になってきていると思います。人間関係や発信する情報は「今がよければいい」ということではない気がします。もし本当にそうだったら、私はこのチームで大阪のあいりん地区に行くべきだと思っている。あそこには闇ドクターも闇ナースも、さらには闇坊主もいます。で、1日中お酒を飲んでいるような人たちは、それでいいと思っている部分もあれば、思っていないところもある。「今」ということについては、もう少し考える必要があるんじゃないかなと思います。
もう1つ考えたことは、今日のニュースで Amazon.com, Inc. のある方が「弱いつながりの組織の方が、知が蓄積されやすい」と言っていました。組織というのはなんのためにあるのでしょうか。だれがなにを持っているかを常に理解しておけるよう「タグ」をつける行為が、もしかすると幸福に必要なことなのかもしれません。各自に役割があり、それぞれの個性の引き出しも1つではありません。それをどうやって私たちが導いていくかということが幸福につながることではないかなと思います。情報とつながり。その関係性を考えるときに、弱いつながりと強いつながりの両方の側面が必要なはずです。
3つ目は、「悪」とはなにかということ。『鉄腕アトム』の中で非常に象徴的なお話があります。アトラスというロボットについてアトムは悩みます。なぜならお茶の水博士は、アトムよりアトラスというロボットの方がより人間に近いと言うからです。アトラスには、アトムにはない「悪い心」が付加されています。その方が人間に近いんです。その話は、アトムの黄昏ているシーンで終わります。
また、小林秀雄は高麗人参の中には熱をあげるエレメント、下げるエレメントと両方あって、熱のときに飲ませたら下げるエレメントが働き、低いときは上げるエレメントが働くと言っていました。ところが、現代の薬は、高熱のときは下げるエレメントだけ抽出して与える。これは大きな問題だと思います。例えそれが「悪」であったとしても、なにかを「選択できる」ということ、その余裕、幅の広さを常にもっていることが、幸せを構築していくことになるのかもしれない。先ほどお話しした日本人の考える向こうの世界にはいいものもいれば悪いものもいるという構成要素の中で生かされる人間性もあるんじゃないかなと思いました。

ドミニク:ありがとうございます。「今」というものをどう定義できるのかという話もあるかと思いました。他にはいかがでしょうか。

DSCF7887

ウェルビーイングが生まれる体験の構造

参加者3:テクノロジーとウェルビーイングの中で気になることはたくさんあります。体験の解像度とコンパッションの関係、今だと VR で他者の視点を見ることができるから共感度が上がると思われがちですが、私はむしろ共感度が下がるのではないかと思います。個人的な直感としては、追体験の解像度が高くなったほうが人間の思いやりのようなものが失われるんじゃないかという気はします。そうしたことについてお話があればお願いします。

参加者4:まず日本的ウェルビーイングを考えるという話をずっとしていて、そこには欧米的なウェルビーイングは日本でそのまま適用できないという前提があると思います。しかし、日本的ウェルビーイングというものが日本全体に適用できるのか疑問です。ウェルビーイングを1つに定義するということ自体難しいし、議論が発散してしまうということを含んでいると思います。それをどう考えるのか、逆にグローバルへどのように問題提起していくか、考えがありましたらお願いします。さらにもう1点あります。先ほどの議論の中ではケーススタディが多いように感じました。ウェルビーイングを実践するにあたって、ケーススタディではわからない部分もあるんじゃないでしょうか。帰納的な議論をしようとして帰納的な結論を導けなくなるのではと思います。

参加者5:広告会社でマーケティングリサーチをしている者です。自律性ということを考えて、幸福な選択が難しい時代なのかなと思います。たとえば Amazon などは商品をレコメンドをしてくれますし、最近だとマッチングのアプリで知らない人と出会うことが手軽になっています。コミュニケーションのコスト、限界費用がどんどんゼロになり、運命の相手をそこで探せるような気がするのだけど、実はそれこそが運命の人と出会えなくなってしまっている逆説的な状況を生み出すという、人の選択の難しさを指摘した人もいます。僕もそれには非常に同意しています。さらに情報との接点が増えていく時代になったときに、人間は選択する生き物だという前提のもと、どう幸福を感じて生きるのか、そこでウェルビーイングなどについて、これからに向けて考えるヒントを伺えればと思います。

ドミニク:では、今いただいた3つの質問の答えを。最初の「体験の解像度を上げれば共感度は上がるのか」という問題について考えがある方はいますか。脳内 AR の話を思い出しましたが。

安田:その前に1つ。コンパッションがいつのまにか幸福に言い換えられている感じがあります。ウェルビーイングとはなにか、幸福とはなにかを改めてとらえ直すべきかもしれません。そうしなければどんな読み替えもできてしまうことになります。
昔、『幸福の心理学』(誠信書房 1994)という本がありました。人は幸福になる前に不幸にならなければならないということでした。人の不幸といっても、人からひどいことを言われたとかそういう類ではなく自律した不幸のことです。自律した不幸には訓練が必要です。いま座っている椅子がいかに自分にとって悪いかとか、足が靴の中でどんなに気持ち悪いかとか、鋭敏な感性が必要になります。そうしたところから幸福を考え直そうという本です。
実は、ひきこもりの人たちと奥の細道を歩くということをしていまして、東京から歩いて、平泉を通って、出羽三山まで歩いていきました。この時に大事なのは全部歩くことなんです。途中で電車を使ってはいけない。それから1回の歩行は1週間以上続けなくてはいけない。そうしないと、3日目ぐらいだと頭が動いてしまう。頭が動かなくなったときに変化が起きる場合があります。僕たちは、ひきこもりの人たちと一緒に歩かない。その人たちはその人たちで歩いてもらう。すると、歩いた人は全員ひきこもりをやめます。その理由は、僕との関係でもなく、歩いたことでもない。理由の1つに俳句をつくることが関係しています。そこには日本人は風景とすごく仲がいいということが関係しています。たとえば、『朧月夜』*2 の歌は感情表現が1つもありません。日本の歌は感情表現がないのが特徴です。その代わり風景の中に感情があります。それを「情緒」といいます。その糸口は風景にあります。ひきこもりの人は歩きながら俳句をつくり、その情緒と一体化することで変容が起きます。大事なのは風景なんです。

sky-moon-moonrise-night

渡邊:解像度の話について。解像度という言葉は、主にビジュアルディスプレイについての言葉です。つまり、遠くのものに対してそれがなんであるのかということを考える上で解像度、空間的な細かさは重要かもしれないし、それは一つの尺度だと思います。一方で、触覚や身体性のようなもので解像度を語る意味はどこまであるのかという点があります。触覚は、近感覚、接触感覚ですよね。そうすると、そこにあることが条件になります。「そこにものがある」というリアリティと、それがなにかという見た目や音などのテスクチャがそこに重なります。体験に解像度が重要かといえば、もちろんそれが高い方がいいかもしれません。一方で、そこに存在があるかというリアリティに関しては、解像度が高いも低いも、そもそもそれが自分にとってなんなのかみたいなことを考えるということが重要になります。「心臓ピクニック」も目の前で渡されるから意味があるのであって、ただここに震えている箱があってもだれもなんとも思わない。目の前の人からもらうことが重要なんです。つまり、そこに意味づけ、コンテクストが生じます。体験をそう考えたときに、もの自体の解像度とそこに重なる意味づけの両方を考えなければならないと思います。解像度をあげることだけがフォーカスされ、その人の個人性だったりコンテクストを損なうのであれば意味がなくなってしまいます。

ドミニク:残り時間が少なくなってきたので、詳しくはこの後の懇親会で話しましょう。お二人の話を聞いて、参加者5の方の質問「選択とオートノミー(自律性)の関係」というのも、今の話にまとめられると思います。自分がそこに関わっている感覚を指す「エージェンシー」(主体感、主体能動感とも)という言葉がありますが、関わっているという感覚と結果の相関性のようなものが脳内ARと重なると思います。脳内 AR の話で僕が好きなのは、小説を読むときには脳内で意識と無意識を両方使って、いろいろなイメージを作り出していますよね。だから多様性が生まれるし、自分にしかない読書体験やイメージというものが出てくる。ディスプレイでバッチリ CG を描き出すということになると、脳内 AR を発動することはほとんどありません。その点で自律性の問題と繋がるのだと思います。

渡邊:そこには透明性と責任という問題が出てくると思います。どういう意図でつくられたかということが示されたとき、意図が透明であったとき、買うことは「それに賛成します」ということを意味するかもしれません。また、透明性があった上で行動することが、そのまま責任を問う形になると、それはそれで問題になります。医療の現場で、専門知識のない患者が細かい説明を受けて「この治療をしますか?」といわれて、「はい」と答えても、自律的に選んだと責任を問われたら、どうしようもなくなってしまう。

坂倉:今日の議論の中であまり出てこなかったのですが、ガイドラインをつくろうとすると、どうしても使う人のウェルビーイングに重点が置かれます。サンフランシスコや神山の調査を経て、開発する人のウェルビーイング、つまり開発環境がどういう風になっているかとか、つくる人の幸福度、つくる人の他者に関する考えというものが実は結構大事なんじゃないかなと思います。そうすると、作る人がウェルビーイングってなんだろうということを考えないといけない。教えてもらうものではないし、常識として共有できていないのであれば、これからの社会は一人ひとりが深堀りしていく必要があると思います。サービスにしろアプリケーションにしろ、人間がつくったものなので、どうしてもつくった人の価値観・世界観・人間観がそこに影響します。人間ってモテたい、儲けたいんだろう? などと思っている人が提供するサービスは、利用者や受け手にそのような変化を与えると思います。一方これは、明らかにそれとは違うところから開発されている気がしてならない、と思って確かめたいものもある。これは、Facebook のいいね!とか企業のビジネスロジックとは異なる軸があるんじゃないかなということを考えます。

ドミニク:坂倉さん、ありがとうございます。最後のまとめにふさわしいコメントですね。私たちは情報技術の開発者のためのガイドラインと、情報を使う側のガイドラインの2つに取り組んでいますが、今日の皆さんとのお話の中で出てきた「おもいやり」や「自律性」といったテーマをどうやって具体的に活用できるかということを引き続き考え、議論し、提案に結びつけていきたいと思います。今日は長い時間お付き合い頂き、どうもありがとうございました。

—–

*2 朧月夜の歌詞

菜の花畠に、入日薄れ、
見わたす山の端は、霞ふかし。
春風そよふく、空を見れば、
夕月かかりて、にほひ淡し。
里わの火影ほかげも、森の色も、
田中の小路をたどる人も、
蛙かはづのなくねも、かねの音も、
さながら霞める 朧月夜。

—–

「日本的ウェルビーイングの可能性」
vol.1「ヴィジョンと現代社会の潮流」
vol.2「法と制度の観点から」
vol.3「ウェルビーイングへのアプローチ」
vol.4「「心」とともにうまれたこと」
vol.5「現代の共感と思いやりの条件
・vol.6「消費されない幸福」

『ウェルビーイングの設計論』について、出版社ビー・エヌ・エヌ新社の関連情報ページもありますのでぜひ参考にしてみてください。
ウェルビーイングの設計論:サポートページ

本イベントにオーディエンスとして参加した山本郁也氏によるレポートもあわせてご覧ください。
「日本的ウェルビーイングの設計の可能性」参加レポート

amu

未来を編む

「編集 」「アート 」「ライフ 」「学び 」 関連の記事を
もっと読む