EVENT REPORT

現代の共感と思いやりの条件――「日本的ウェルビーイングの可能性」vol.5 パネルディスカッション

【スピーカー(研究参加者)】安藤英由樹、渡邊淳司、坂倉杏介、ドミニク・チェン、加藤亮子、水野祐、生貝直人、安田登

【スピーカー(特別ゲスト)】石川善樹

EVENT REPORT

現代の共感と思いやりの条件――「日本的ウェルビーイングの可能性」vol.5 パネルディスカッション

【スピーカー(研究参加者)】安藤英由樹、渡邊淳司、坂倉杏介、ドミニク・チェン、加藤亮子、水野祐、生貝直人、安田登

【スピーカー(特別ゲスト)】石川善樹

2017年3月25日、amu にて JST/RISTEX「人と情報のエコシステム」採択プロジェクト「日本的 Wellbeing を促進する情報技術のためのガイドラインの策定と普及」のキックオフ・シンポジウムが開催されました。レポート第5弾は現代の日本人が送っている人生における日本的ウェルビーイングのあり方についてのパネルディスカッションをお送りします。

OVERVIEW

2017.03.25(土)

スピーカー(研究参加者):
安藤英由樹(大阪大学准教授)、渡邊淳司(NTTコミュニケーション科学基礎研究所)、坂倉杏介(東京都市大学准教授)、ドミニク・チェン(株式会社ディヴィデュアル共同創業者)、加藤亮子(芝の家・事務局長)、水野祐(シティライツ法律事務所・代表弁護士)、生貝直人(情報通信総合研究所・法制度研究部・研究員)、安田登(能楽師・ワキ方・下掛宝生流)
スピーカー(特別ゲスト):
石川善樹(予防医学者、Campus for H共同創業者)

INDEX

  1. 人間洛中洛外図
  2. 寿命100年時代の「満足の上限」
  3. 日本独自の「助け合い」とコンパッションのつながり
  4. 無目的なコミュニティで生まれるコンパッション
  5. 他人を受け入れられる環境とコミュニティ
  6. 法とシステムは死をデザインできるか
  7. 新たな課題、身体による理解と共感

人間洛中洛外図

ドミニク:それではパネルディスカッションに入ります。最初に、研究メンバーの渡邊淳司さんから問題提起をお願いします

渡邊:まず、今日の議論の大前提として、「コンピューターが利用されはじめた頃に追い求められた生産性と効率性が徐々に過去のものとなりつつあり、私たちは新たな時代へ突入しようとしている」ということが挙げられます。つまり、テクノロジーが個人のウェルビーイングとともに、社会全体の利益にも貢献することが求められているということです。ドミニクさんと一緒に監訳を担当した『ウェルビーイングの設計論』(ビー・エヌ・エヌ新社2017)日本語版書籍の帯にある「テクノロジーは本当に人を幸せにするのか?」という言葉の通りですね。
日本的ウェルビーイングの研究開発ではこういうテーマのもとで、それぞれ専門分野の異なるメンバーが集まっています。プロジェクトの特徴としては、社会という観点からではなく、身体性や触覚といった人間の持つ感覚を出発点にして社会性をとらえ、ウェルビーイングを考えていこうとしています。このイベントでは、第1部でウェルビーイングを心理学や経済学、政策、その他様々な分野の観点で議論し、第2部ではポジティブコンピューティング、ウェルビーイングに関連する「フロー」や「マインドフルネス」などの概念について個々の議論がされました。それらを経た今、私はこの本を通して、どうやってその概念を身体化していくか、肌感覚で考えていけるかということに取り組まなければならないと思いました。

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まだ「そもそもウェルビーイングとはなんですか」ということを話していませんでしたね。まず、ウェルビーイングには大きく分けて3つの観点があります。
1つ目が「医学的なウェルビーイング」です。これは心身の状態が良好であるかどうかで健康診断や質問紙で測ることができるものです。これは医学・メンタルヘルスの分野であり、最初にドミニクさんの視察報告であったオーストラリアなどはこの医学的なウェルビーイングについての議論がとても盛んです。
2つ目は「快楽主義的ウェルビーイング」で、「いい感じ」「気持ちがいい」といった瞬間的かつ一時的な感情として測ることができるものです。例えば、興奮すると瞳孔が開きますが、それを指標にして計測することができます。これは、快楽状態になればそれでいいのかという問題提起がセットで出てきます。
3つ目が、『ウェルビーイングの設計論』の中で中心的に議論されている「持続的ウェルビーイング」です。「持続的」という言葉を使いましたが、心身の潜在能力を発揮して、意義を感じていきいきとしている状態のことを指します。英語では「フローリシング(flourishing)」、開花する、花開く、という意味があって、それぞれの人にとって自分自身の状態だけでなく、自身の能力が人の役にたって機能している状態のことをそう呼んでいます。
定義だけでは分かりにくいかもしれませんが、「天気いいよね」とか「あの人元気だね」といった誰もが同意できることに対して、それが一体どういうものであるのかを測ろうとしても複雑で難しい。持続的ウェルビーイングのとらえ方については、先ほど石川善樹さんがプレゼンで3つ挙げられていた「ロジック」「ビッグピクチャー」「触ってみる・感じてみる」というお話がありましたが、僕もビッグピクチャーを描いてみました。是非、石川さんにもコメントを頂きたいところです。

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これは「京都洛中洛外図」ならぬ「人間洛中洛外図」です。これは、様々な研究で取り上げられたウェルビーイングのキーワードで、人間を1つのシステムとして考えて、それらを配置したものです。私の主観で配置しているので科学的な根拠があるわけではないことはご了承ください。人間は何かに動機づけられて動き、それに対して現状の感情が変わったり、何かに対応するときには没頭し、フロー(flow)*1を感じる。一方では、マインドフルネス(mindfulness)*2のように自分の注意をどう制御するか考えたり、何かをしたときには自己効力感(self-efficacy)*3 を感じたり、未来に対して楽観的なものを感じたり、過去に対しては自己への気づきや慈しみが湧いたりといったことが起こる。さらに、何が役に立っているのだろうと考えることが動機づけになるといった大きな1つのサイクルをビックピクチャーで描きました。西洋的な概念も関係付けて作りましたが、そこからさらに自律的に動くということだったり、人から評価されれば自尊心が生まれてくるということがあります。やり抜く力はグリット(grit)*4と呼ばれていますね。「人間洛中洛外図」は、今挙げていったようなことについての試論として作成しました。この図に出てくるようなことを、「集団」や「場」というものを重要視する日本の中でどうデザインすればいいのかを問題提起の1つとして挙げます。日本の集団主義的な価値観の中でウェルビーイングという言葉を描くとき、現状どういうキーワードが浮かび上がってくるでしょうか。
そして、もう1つの問題提起は、日本的ウェルビーイングのガイドラインの作り方ですね。法律的な面や、集団の中での政策的なものであったり、コミュニティをどうつくるか、もしかしたらプログラミング言語をどう作るか等々、そういった方法について具体的な議論ができればと思います。

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*1 フロー
人間がその時していることに精神的に集中した時に得られる深い充足感や、完全に没頭した時にもたらされる精神状態を指す。ゾーン、ピークエクスペリエンス、無我の境地、忘我状態とも呼ばれる。心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱され、その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。

*2 マインドフルネス
雑念を持たず、リラックスして今の時間だけに究極的に集中している時の研ぎ澄まされた心のあり方や、それを目指すプロセス。

*3 自己効力感
人が何らかの課題に直面した際、自分はそれが実行できるという認知にともなう期待(効力期待)や自信のことを自己効力感という。 心理学者のアルバート・バンデューラが唱えた概念で、行動の動機づけに大きな影響を及ぼす要因の1つと考えられている。

*4 グリット
困難に直面してもやり抜く力、気概。近年では成功者に共通の心理特性として注目を集め、成功にはIQの高さや才能ではなく「やり抜く力=グリット」が重要であると言われている。
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寿命100年時代の「満足の上限」

石川:この「人間洛中洛外図」という図は、もっと本質をシンプルに、大事なことをひとつに絞ることができると思います。この図でいう「コンパッション(Compassion・思いやり)」の部分ですね。人間と、ほかの動物の違いは何か。霊長類は300種類くらいいますが、その中で人間だけが持つ特徴があります。ゴリラの研究をされている京都大学総長の山極壽一先生によると、それは「見知らぬ他人に餌を与えること」です。これは強い雄が弱い雄に自分のつがいの雌をゆずるゴリラでさえも絶対にやらないことなんです。勿論これにはいろいろな見解があると思いますが、人を思いやったり見知らぬ困っている人を助けたりすることが結果的に自分に返ってくるということ、そういうことを考えるのが人間のウェルビーイングを考えるときに重要なんだと思います。そういう意味では、このビッグピクチャーはコンパッションに尽きると思います。

渡邊:先ほどの発表で、石川さんが「人生100年時代」という話と、AI化、そして都市化という話を挙げられていました。この中でも特に「都市化」がコンパッションと結びつく議論なのかと思いますがどうでしょうか。

石川:人間にとって見知らぬ人とは基本的に驚異な存在なんです。テレビなどで見たことがあるかもしれませんが、アフリカのある原住民族は見知らぬ人を見かけると必ず歌って踊るんですよ。歌って踊って酒を飲むと、ハッピーになって、見知らぬ人と打ち解ける。そういう意味では、都会では知らない人ばかりなので、本来であれば常に歌って踊って酒を飲んでいないと暮らしていけないはずですね(笑)

渡邊:また、100年生きるという視点から考えると、寿命が延びたことで修行期間が長くなり、自分が何かをやり遂げることと、何かを学ぶことを意識的に行き来することが必要になるかもしれないですね。

日本独自の「助け合い」とコンパッションのつながり

ドミニク:コンパッションの概念は、ポジティブコンピューティングの中でも因子分解している表があって、個人のレベル、対人的レベルと社会的レベルがあります。

石川:ミクロ、メゾ、マクロですよね?

ドミニク:そうですね。そうした因子が一番研究されているのは個人のレベルですね。マクロ、メゾにいくにつれて、段々ウェルビーイングの因子が少なくなる傾向があります。僕たちが「日本的」という言葉の元に個人主義と集団主義の話をしている中で、誤解を招かないように言っておかなければいけないのは、完全に日本と諸外国を切り離して考えることはできないということ。現代の日本は欧米の影響を大きく受けているし、日本語以外の言語を全部排して生きているわけではないですよね。「日本的」ということで「日本人とはこういう人だ」という定義をしようとしているわけではなく、まずはビッグピクチャーを通して本質をつかもうというのが主旨です。
その中で、コンパッションが一番の本質だという指摘はとてもおもしろいと思います。それはつまりは、人は自分だけでは完結しないという意味だと思います。ウェルビーイングには必ず他者が関係していて、その人との関係性の中で慈しみの心や感情がどのように満たされるかということ。そういうノンリニアな構造を持っているからこそ難しいのだと思います。

石川:日本人が他人を助ける仕組みをどうやって築いてきたのかを考えてみましょうか。マイクロファイナンスを例にしてみましょう。例えば、銀行がない時代に10人でグループをつくって、毎月1万円ずつ出しあいます。そうするとひと月で10万円になりますよね。で、その月の生活が厳しいメンバーがいたらお金を融通するいわば個人単位の「助け合い」のシステムがマイクロファイナンスなんです。こういったマイクロファイナンス以外では、日本人が見知らぬ人の痛みをどう捉えてサポートしてきたのかということをあまり調べたことがないので、安田先生にお伺いしたいのですがいかがでしょう?

安田:たくさんありますよ。コンパッションは日本語で「思いやり」と訳します。いわゆる「共感」ですね。日本の「思いやり」という言葉は「やる」という基本的に未来を指している言葉なんですよね。人間の一番すごいことって道具を思い通りに使えることじゃないですか。届かないところに「やる」のが思いやりだと思うんです。そして「助」という漢字は完全に他人と一体化することですね。僕は能楽師として35歳のときに鼓(つづみ)を買いましたが、その時に「今はまったく音が鳴りませんが、毎日打てば50年経つと鳴ります」と言われました。50年間毎日打って85歳。毎日は打てないので、この鼓は僕の時代には鳴らないことになる。

石川:次の世代ということですね。

安田:かなり先の世代だと思います。能は一代でやり遂げようという人はほとんどいません。しかも自分の子供のためでもないんです。顔をみることもない見知らぬ人のために鼓を打つということを当然のようにしています。

無目的なコミュニティで生まれるコンパッション

ドミニク:鼓の話で思い出したのは、江戸時代の長屋文化などには、お互いの子供を一緒に育てるということがありました。「俺の子供だから触るな!」といったことはなかった。隣人の子でもちゃんと怒るし、褒めるし、一緒に育てる。他にもそういう共有の感覚を示す事例はたくさんあると思いますが、コミュニティのデザインに取り組まれている坂倉さんから見て、そういうコンパッションのかたちをどう考えますか?「芝の家」の実践のなかで意識していることや気付いたことなども踏まえて、加藤さんにも是非お聞きしたいです。

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坂倉:「芝の家」というのは少しだけ話しましたが、生まれて間もない赤ちゃんから老人まで、親戚関係でもなく偶然近所に住んでいる人が集まっている場です。先ほど都市化とは知らない他人ばかりいることだと聞いて、なるほどなと思ったのですが、芝の家では他人同士が地域の中で共に生きていく・共存していくということを始めています。文化的に違う背景を持つ人が一緒に住み始めるということは昔はあったのかもしれませんが、特に今の東京はそういうのがなくなっていますよね。
そういった都市の中で、芝の家はどうやって知らない人たちと暮らしていくかということを考え、実践する場所になっていると思います。では、そうすると芝の家が特殊かといえば、実はそうではなく、普通に色々な人が出入りして関わり合い、知らない人でも親切にする。自然にコンパッションが生まれているんです。
現代人であっても、近隣に一緒に住んでいる人同士は環境さえ許せば親切にし合うもので、本能としてそれがあるのではないかなと思います。だからそれほど未来は暗くないのだと思ってます。
しかし、そういう環境はまだ圧倒的に少ない。IT技術というよりも、都市環境づくりや暮らし方、公共空間をどう作るのかが問題なのかもしれない。コンパッションを生み出す関係そのものが環境から生まれにくいと考えた方がいいですね。
あとは、寿命100年の時代であっても、人間は死ぬ存在なのだということを改めて考えてみた方がいい。今日集まっている人は、テーマへの職業的関心などでいらっしゃってると思いますが、「芝の家」はテーマではなく「そこに生きて、生活している人」として集まっている場所なんですね。大学の教員、会社員、主婦の方もいる。色々な人が集まるだけ、生死の問題も身近にある。
元気だった方が急に亡くなって、その方のことをみんなで思い出す会をしたり、そういうことが2〜3ヶ月に1度はあります。一方で、芝の家に来ている人に子供が生まれたりもする。そういうことを日々目の当たりにしていると、直観的に人が生きていくということはどういうことなのか?都市の中で人と関わるとはどういうことなのか?私たちが死んだ後はどうなんだろう?ということを考えるようになります。
必ずしも生きている間に、現世で金儲けして自分だけが楽しければいい、といったことではないんじゃないかということが分かち合いやすいのかなと思います。加藤さんはいかがですか?

加藤:そうですね。思いやりという感情を出せる環境が少ないという話がありましたが、本来持っているはずのそれが、都会では他人との距離感で変わってしまうのかなと。都会では倒れている人がいても声をかけていいものなのか?と迷ってしまう。助けてあげたいと思っていても、相手がどう対応してくるか、受け入れてくれるかという考えが邪魔をして、思いやりを発現しにくい状況があるのかなと思います。
私は芝の家にいて、家族や友達のように心を許している距離感ではなかった人たちと、こんな風に心の距離を縮めることができるのだなと気付くことがありました。芝の家に関わっていた女子大生の話ですが、人付き合いの苦手そうな30代〜40代の男性がいて、彼女も彼のことを苦手だと思っていたけれど、思い切って声をかけてみたそうです。そして、話すうちに彼の人付き合いの苦手そうなところを客観的に「そういうところがある人」として理解できるようになり、気付いたらそうした部分にむしろ親しみさえ感じられるようになったそうです。それは長い時間をかけて話をしていたからではなく、同じ場で過ごしている中で最初は受け入れられないと思っていたものが、受け入れられるようになっていくということですが、これは凄いことだと思います。

ドミニク:先ほど坂倉さんの発表で、コミュニティというものがどんどん薄っぺらくなっているという指摘がありましたが、コミュニティの多くは目的が設定されていますね。治安を良くするとか、婚活パーティーだとか、なにか具体的なものを学ぶとか、そのように目的をプリセットされているコミュニティがたくさんあります。でも芝の家はそういった目的を持たない人々が集まっている。それで良しと納得して人が集える場所はすごく貴重だと思いました。「無目的な場所で人と出会う」という出会い方に対して、目的があって利害を一致させるという出会い方もあります。出会い方の経路によってその後のコンパッションの発動の仕方もだいぶ変わってくるのかなと思いました。例えば、情報技術を使って目の前の人にスマホをかざすと、お互いの利害が見えるようになって、お互いに一致した人同志がくっついたとしても、その関係性を長い目で見ると果たして持続的なのかどうか、と思います。

他人を受け入れられる環境とコミュニティ

石川:僕が思ったのは、都会にいると気が合わない人と過ごさなくてもいいってなりますよね。amazonで気に入らない商品は表示されないのと似ている。ますます、ダイバーシティが失われていくのが都会という場所なのかなと思うんです。田舎や先ほどの芝の家だったら、さっきみたいに気が合わない人も一緒にいなくちゃいけない。でも都会はそんなところに自ら選んでいなくても、気があう人とだけいればいい。これについてはどう考えますか?

坂倉:そうですね。都会の人は忙しいから、得られるものがあれば一緒にいるし、得るものがなくてむしろ嫌な思いをするぐらいだったら一緒にいなくてもいい。いくらでもそこから逃げられるのだと思います。これは便利で合理的なようですが、「私はその場に対して役に立っていない限りはいちゃいけない」ということにもなり得る。これは怖い考え方ですよね。常に良い人間でなければいけない、会社だってそうですよね?

渡邊:信頼という言葉がすごく関連していると思いました。人から何かを学び、自分を変えるには、想定とは違うことをいってくれる信頼の厚い他人が必要ではないでしょうか。無目的な組織や集団の中での「信頼」と、目的ある組織のそれは違います。後者は「役割」を前提にした「信頼」ですが、前者はかけがえのない人や言葉が存在するということと関連しているのかなと思います。人が役割や機能として存在する記号的なものではなく、そこに人がいて思いをどう伝えるかということ自体がちゃんとある。そこに信頼が生まれてはじめて、学びが生じたり、ダイバーシティを受け入れられるのかなと思います。

安田:私は全国で寺子屋をやっていて、熊本では10年以上になります。そこはお寺なのですが宗派関係なく皆さんいらっしゃいます。私は2ヶ月に1回しか行けないのですが、皆さんは互いにもっと会いたいということで「寺友(てらとも)」と呼び合って自分たちで集まって飲みに行こうとおっしゃっています。
10年以上やっていると亡くなる方も多いんです。お寺なので、まったくお墓を持っていなかった人もそこに入って、死者も含めたコミュニティができています。今月はあの方が亡くなった時期だからあの方の為に何かをやろうとか、自分は今まで来てなかったけれど亡くなった家内が来ていたからこれから来るようにしますとか、生きている人だけじゃないコミュニティというのもありうるなと思いました。当時幼稚園だった子が、高校生になって一緒に食事をつくるということもありますしね。

ドミニク:ありがとうございます。先ほど、坂倉さんもお話されましたが、亡くなった方を思いやるということもそうだし、石川さんが秋元さんを紹介したのもコンパッションの1つの形ですね。死生観は、宗教的・文化的な側面が色濃くあると思います。西洋文化圏と日本のローカルとでは考え方は違いそうです。

法とシステムは死をデザインできるか

ドミニク:ここで、90度くらい方向転換をして(笑)、リーガルチームの話も聞きたいです。「死のデザイン」という話題が出ました。最近でもWIREDと連動して、民族学者の畑中章宏さんという方が、自分のお葬式をどうデザインするかというワークショップを行っていました。情報技術分野では、自分の死後、個人情報を全部削除してくれるようなサービスもでてきています。死だけではなくても、コンパッションに法律が介在できる領域として、例えば「忘れられる権利」も近いものかと思います。1回犯罪を犯したり、ふとしたことでネットで炎上してしまった人は、その人の名前を検索で調べると犯罪の履歴がずっと残ってしまう。それについて取材していたイギリスの記者が、Twitterでの炎上によって社会的に抹殺されてしまった当事者に、Google の検索履歴を「正常化」するサービスを紹介したということがありました。こういうことについて、法律や制度の観点から、思ったことをお2人に聞きたいです。

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生貝:ここまでの話を聞いて、社会科学の立場からの感想と要望を。欧米と日本の違いとして、日本ではあらゆる制度が伝統的に長期的な関係を前提に設計されているということがあります。例えば、生まれてから死ぬまで勤めることを前提にした雇用システムや、金融システムなどです。こうしたことの背景には経済的な必要性も当然あると思いますが、持続的な集団の中で安らぎを感じるという日本人の元来の性向もあるのではないかと思います。ただ、ここしばらく流動性やダイバーシティといった世界的な流れがあります。そういったある種の環境の変化の中で、グローバルな日本人の幸せの度合いというところにとって、この日本人の集団主義的な側面がネガティブに働いているようなところがあるのかもしれないと思います。
そういう時に、制度を変えていくという選択肢があります。制度を変えるためには、人々が流動性などを前提としたような新しいシステムにどう馴染んでいくのかということがある。先ほど出てきた「思いやり」や、見ず知らずの他人と共感するためのインターフェイスとして、「心臓ピクニック」はおもしろいなと思いました。今まで長期の関係の中でしか信頼を築けなかった日本人たちが情報技術でどう変わっていくのかという課題において、社会システムへ働きかける仕組みとして、ポジティブコンピューティングに期待ができるのではないでしょうか。

ドミニク:ありがとうございます。今までは見知らぬ他人に対して歌って踊って酒を飲む時間が必要だったところを、情報技術の活用によって都会に集まっている色々な人の回路を結んであげることができたら、ひとつの底上げになるのではないかという提案だと理解しました。水野さんはどうですか。

水野:遺言の話は面白いですよね。遺言は書いた方が、未来の人たちにとってに争いごとが少なくてすむ。この中で遺言を書いている人はいますか?ほとんどいませんね。これだけの人がなぜ書けないのかというのは興味があります。英語だと遺言は Will、「意志」という意味だけど「未来」という意味でもあります。死をデザインするとは未来をデザインするということだと思います。みんなこれだけ死をデザインできないのはなぜなのかというのは興味深いです。
今日の議論で僕が持ち出したいことは、契約や法というオペレーションシステムが非常に欧米的なものだというマクロな視点の提案です。日本には契約文化がなく、阿吽の呼吸で社会が動いてきたので、日本が世界を無視して日本的な制度を設計するというのはもはや難しいことですが、だからこそ法のことは考えなきゃいけない。そもそも法の権利と義務でプログラミングのように構成していく、それで社会をルールづけていくという方法論自体がウェルビーイング的なのかということを考えなければならないと思います。
「〜できる」という「権利」と「〜しなさい」という「義務」の2つによって法律や契約は構成されています。法律で重要なのは「〜しちゃいけない」とか「〜しなければならない」という義務の方です。契約ではどちらかというと「〜できる」という権利の方がつよく、モザイク状に組み合わさっています。僕はこれに対して人間のウェルビーイングにとって重要なのは自律性だと直観しています。そして、そう考えると「〜しなければならない」ではなく「〜できる」を重視していくことが個人の自律性を押し上げる社会になると思います。
法律で「〜をする」のではなくて、我々が今生きている社会は契約自由の原則があって、契約は法律に優先して物事が決められる、そちらの方が効力が優先されるというルールができています。クリエイティブ・コモンズのように、そういった契約と自由の原則をより重視していく中で、法律よりも契約を自分たちでルールメイキングしていく発想を一人ひとりが持つという社会はウェルビーイングなのかもしれないなと思いました。

ドミニク:それは、自分で自分の状態を決定できるということですね。

水野:あらかじめ決定されているのではなくて、選択によって社会ができあがっている、それは社会へのエンゲージメントも高めるのではないかと思います。

新たな課題、身体による理解と共感

ドミニク:ありがとうございます。水野さんが話していたスマート・コントラクトができてくることによって(『法と制度の観点から―日本的ウェルビーイングの可能性 vol.2』参照)、今まで遺言は行政書士による公的なスタンプがなければ有効ではなかったのに、情報技術が進むことによってもっと簡単に、ブログ記事を書くように遺言が書けるようになる。それによって長期的な、先ほどの安田さんの鼓の話ではないですが、まだ顔も知らない自分の家族もしくは孫のために自分で意思決定ができるということへとつながってくるのかと思いました。先ほど、渡邊さんからガイドラインをどのようにまとめていくのかという問題提起がありました。リーダーの安藤さん、どうですか。

安藤:「非常に難しいということが分かった」ということだけをいっても仕方ないので、やはり今日話を聞いて考え直さないといけないと思ったのは、ロジックを使って考えていくだけではダメだということです。「思いやり」という言葉が出ましたが、自分と他人の間でこの人はこうしたら嬉しいだろうということを自ら考える。そうすると自分も嬉しいと思えるようになる。ウェルビーイングは相手を助けてあげるということ、それはどんどん繰り返していけば自分にも思いがかえってくるということです。かといって、それをロジカルなプロセスにしてしまうと「思いやり」が利益を目的にしたものになってしまう。そうなると、「思いやり」はもはや「思いやる」ことではなくなってしまう。では、どうするのか? 僕もどうしたらいいのか今はまだわかりません。ヒントとしては、今日「体感的」「直観的」「身体的」にという言葉がありました。ロジックで説明はできないんだけど「ああ、こうだよね」となんとなく身体で聞いてわかるということがあります。なぜそうしたことが起こるのかはまだわかりません。でもそのこと自体は私たちが直面している課題に対してツールとして使えるのではないかと思います。ガイドラインでどう説明するかは今はまだわかりませんが、方向性みたいなところは見つけられた気がしました。

石川:僕が学会でパリに行ったときに驚いたのは、小さい子供のホームレスが沢山いて、路上で寝泊まりしているんです。それを見た僕は何も力になれず、無力でした。でもそういう子たちの気持ちを理解するために、去年の9月ぐらいにベッドをやめて床で寝てみることにしました。すると、身体は痛いし、寒い。昨日も床で寝たので、寒さに震えて起きてしまいましたが(笑)、半年以上やった今ではだいぶ慣れてきました。今度は屋外で寝てみようかなと思っていますが…これも相手を理解するという思いやりのひとつの形だと思っています。彼らがどういう風に生きているのかやってみないとわからない。

ドミニク:共感ということですね。

石川:でもやはりそれには時間がかかるなと思いました。たった1人の気持ちを理解するのにこんなに時間がかかるんだなと。この間も泣きながら雑居ビルに入っていく女の子がいて、直感的にヤバイと思って追いかけて話を聞いたら、屋上から飛び降りようとしていたんです。話を聞くと、前の夜にいろいろあって翌朝パニック障害をおこしたそうです。だけどそういう子たちをずっと面倒みることはできない。みなさん、今日1日誰かに思いやりを持てましたか? 自分のことばかり考えていたんじゃないでしょうか。1人でも誰かのことを思いやる日々をどれだけ積み重ねられるかかが、みんなができるウェルビーイングなんじゃないかと思います。

ドミニク:僕も子どもが生まれてから、ある感覚が発動されるようになりました。1歳くらいの時の娘が転びそうになったとき、僕の身体が彼女の痛みを先取りして痛くなったんですね。その感覚がとても鋭敏なので、すぐに「危ないよ!」を連発する、自分でも口うるさい父親だと思います(笑)。それにはミラーニューロンも関係しているだろうし、長い修行的なプロセスを経ないと他者の痛みはわからないのかもしれません。そうやって考えると、情報技術によって感覚を拡張することで、おもいやりや共感に働きかけられる方法があるかもしれないですね。

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