EVENT REPORT

「日本的ウェルビーイングの設計の可能性」参加レポート

【著者】山本郁也

EVENT REPORT

「日本的ウェルビーイングの設計の可能性」参加レポート

【著者】山本郁也

情報アーキテクチャの祭典 World IA Day Japan のオーガナイズを務める山本郁也設計事務所の山本郁也さんが、amuで開催された「日本的ウェルビーイングの設計の可能性」をレポートしました。テクノロジーと情報技術に支えられる私たちは、いまや「テクノロジーは人を幸せにするのか?」という根本的な問いに取り組む段階へと至ったようです。

OVERVIEW

2017.03.25(土)

著者:
山本郁也(山本郁也事務所 代表/特定非営利活動法人 人間中心設計推進機構 評議委員/一般社団法人 HEAD研究会 フロンティア TF 副委員長)

INDEX

  1. 提起された問い――「人びとはテクノロジーによって幸せになっているのか?」
  2. いま求められる自律性
  3. 情報技術時代のウェルビーイングの可能性
  4. 誰でもない他者への気づかい
  5. プロジェクトの意義と提言

提起された問い――「人びとはテクノロジーによって幸せになっているのか?」

2017年3月28日、恵比寿の amu にて「日本的ウェルビーイングの設計の可能性」と題したイベントが開催された。これは、「日本的 Wellbeing を促進する情報技術のためのガイドラインの策定と普及」というプロジェクトのキックオフにあたる(プロジェクトの詳細ページ)。
この研究会は、情報学・認知科学・コミュニティデザインの分野の研究者や実践者、また、弁護士、能楽師、住職など、さまざまなメンバーによって成り立っている。「日本的」ウェルビーイングを考える上で必要だと判断した人材を集めた結果だと思われる。こういった研究会は得てして理系の研究者が中心となりやすいのだが、このイベント全体を見ても、能楽師による漱石の「夢十夜」実演や、住職による総評など、研究者以外の視点を取り上げていたのが特徴のように思える。「ウェルビーイング」という、社会にとって究極的なテーマに向かうのだから、当たり前といえば当たり前のことだが、非常に重要な点だろう。

情報技術が普及して数十年が経過した。その技術は人びとを便利な生活へと導いたことは疑いようもない。わからないことがあれば Google が教えてくれる、欲しいものがあれば Amazon で買うことができる。本当に便利な世界になった。しかし、「人びとは果たして幸せになっているのだろうか」、この問いがこのイベントを終始貫いていた。たとえ便利になっていようが、幸せになっていないと意味がないのではないか。そろそろ「便利」を越えて、「幸せ」について考える時期なのではないか、という問題提起である。

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こういった流れは別に特別なことではない。2014年に開催されたサービスデザインのカンファレンスである Service Design Global Conference のテーマは” Creating Value for Quality of Life ” であったし、2015年に開催された World IA Day のテーマは ” Architecting Happiness “であったように(日本でも開催し、筆者がオーガナイザーを担当した。その際のローカルテーマは「身体性」であり、全体を通して「弱さ」というキーワードが際立った会となった)、さまざまな領域で「幸せ」について考えられはじめている。しかし具体的な解決策はまだどこからも提示されていない状況だ。
我々は、情報技術によってもたらされた恩恵だけではなく、それによって生まれた多くの副作用から目を逸らしてはならない。昨今、いや、もう何年も前から「SNS 疲れ」「ネット炎上」「ネットいじめ」など、インターネットの負の作用が目立つようになってきたことは紛れもない事実である。また、フィルターバブルのような問題も浮き彫りになった。フィルターバブルの問題は、民主主義の仕組みそのものに影響を与えるような大きな話だったにもかかわらず、いまだにだれも明確な回答を出せずにいる。
この研究会の存在自体が、「そろそろこれらの問題に向き合おう」というきわめてポジティブなメッセージを発信しているように思う。この流れには大いに賛同したい。

いま求められる自律性

安藤英由樹氏による事例紹介によると、アメリカではすでにウェルビーイングについての議論が進んでおり、いわゆる「中毒」にさせる以外の方法を模索しているらしい。さらに、オーストラリアでは国家規模で国民のメンタルヘルス向上を支援しており、医療の観点からの技術研究も進んでいるとのことである。その際に特に重要となる観点が、「Autonomy=自律性」であり、書籍『ウェルビーイングの設計論  人がよりよく生きるための情報技術』(ビー・エヌ・エヌ新社 2017)の中でも多く登場するキーワードである。

syoseki3 『ウェルビーイングの設計論――人がよりよく生きるための情報技術』 ビー・エヌ・エヌ新社刊

 確かに情報サービスの開発において、「中毒」にさせるという側面があることは否定できない。計測も容易で Web サービスの KPI となりやすい「滞在時間」や「リテンション」を向上させるために、ありとあらゆる施策を検討する事業者が多いのは周知のことだろう。それが「中毒」を引き起こしている可能性は十分にある。その「中毒」が人びとの「自律性」を低下させているということももちろんあり得るだろう。
コミュニティデザインの観点からは、情報技術の開発環境の話と、地域をつなぐ交流の場の話がされた。
開発環境、この観点は意外と忘れがちだが重要である。ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(Jakob Johann Baron von Uexküll)が指摘したように、生物はどうしても環境に規定される。であれば、ウェルビーイングの設計をする人が「どこ」にいるのかは重要であるに決まっている。「どこ」で設計するかによって設計内容が変わるからだ。今回の発表ではまだまだ事例がすくないようであったが、これからの研究に期待したい。

慶應義塾大学と港区が運営している「芝の家」は、まさしく地縁の話であった。この場所は地域に開かれており、だれでも自由に出入りできる。そのため、中学生から高齢者まで、幅広い年齢層の人びとが集まり、多世代が交流できる場所となっているらしい。
日本人はそもそも昔から血縁よりも地縁を重要視してきた。利害関係のない多種多様な人びとが集まることができる「場所」は日本人にとって欠かせないものである。この取り組みはきわめて日本的であり、ここにウェルビーイングのヒントがあるようにも思う。しかし、情報技術において「場所性」はないに等しいということを忘れてはいけない。コミュニティデザインにおいては、「場所」と「その場所に同時に居るという身体性」が重要になる。それを情報技術でどう実装するのか。果たして実装可能なのか。大いに検討の余地があるだろう。

情報技術時代のウェルビーイングの可能性

弁護士の水野祐氏からは、縛り付ける法律のようなネガティブなアプローチではなく、前向きな行動を促すようなポジティブなアプローチはできないかという提案がされた。情報アーキテクチャの業界でも馴染みの深い、リバタリアンパターナリズムやレッシグのアーキテクチャなどを参考にしつつ、人びとの自律性やコモンズの確保を前提とした設計をすべきだという話であった。ここで重要になるのは、パターナリズムやアーキテクチャが行き過ぎると、ユーザーの自律性を損ねるということだ。

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水野祐氏の近著、『法のデザイン—創造性とイノベーションは法によって加速する』フィルムアート社刊

アーキテクチャはその性質上、基本的に人びとに寄り道を許さないものである。それは、なにも知らない人を真っ直ぐにゴールへ連れていく場合には有効だが、自律性を奪ってしまうという点においてウェルビーイングには繋がらない。これはまさしくその通りだろう。アラン・クーパー(Alan Cooper)のゴールダイレクテッドデザイン*1 ではもうダメなのだ。ユーザーによる自主的な寄り道が許される「弱いアーキテクチャ」が検討されるべき時代になったともいえる。
情報政策の研究者である生貝直人氏からもやはり「自律性」をどう確保するかという話が中心にされた。緩やかに働きかけることで、自主的な行動変容を促すことができるのではないかという提案であった。
IoT やビッグデータを活用した「運転者の行動特性によって保険料が増減する」という仕組みの話や、シボレーと IBMが共同で実施した「SNS でのポジティブ投稿の度合いに応じて、ガソリンを無料で給油できるサービス」の話などは、ユーザーメリットがわかりやすく、良い例だと感じた。善いことをしましょうと言うだけで善いことができる程、人間は優秀な動物ではない。資本主義と結びつけることで、行動変容を強く促すことができるのは間違いないだろう(もちろんそれは危険なことでもあるのだが)。
そして同時にポジティブコンピューティングのリスクについても語られた。無意識の内での介入や内面への侵入などの誤った介入を防ぐために、「本人による関与可能性や透明性、エビデンスベースの介入と評価検証可能性、介入目的の明確化」が必要だと生貝氏は言う。まさしく、この辺りの基準を明確にしないことには、ウェルビーイングはなし得ないだろう。人びとのウェルビーイングを情報技術の設計者が担っているのだとすると、設計者にのしかかる責任はとてつもなく大きい。

予防医学者の石川善樹氏が話した「人生100年時代」についても向き合う必要があるだろう。石川氏によると、ほとんどの人が自分について80才くらいで人生を終えると思っているが、今の若い人は100歳まで生きるとのことである。これはリンダ・グラットン(Lynda Gratton)とアンドリュー・スコット(Andrew Scott)が書籍『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』(東洋経済新報社 2016)の中でも語っていることだが、長寿大国ニッポンにとってはきわめて現実的な話だろう。確かに寿命が20年違えば、人生設計そのものが変わるはずである。しかし我々はこの事実についていまだにリアリティを感じることができていない。それ自体がまた別の課題でもある。
また、石川氏は戦後の日本が経済と寿命の観点では右肩上がりであるのに対して、人生満足度に関しては戦後から今までなにも変化がないことについても指摘した。寿命が伸びても満足度が伸びていないなら、それはけっして幸せとは呼べない。「長寿という空虚」など誰も望んでいない。ウェルビーイングは時代に必要とされているのだ。

シンポジウムの途中では、能楽師の安田登氏と三味線演奏家の玉川奈々福氏による、漱石「夢十夜」の能楽の実演がされた。昼間だったこともあり当日の会場は少し明るかったが、本来はほとんど見えないくらいに暗い環境で演じるらしい。安田氏は「見えないからこそ見える」、この能力こそが重要だと語った。その流れの中で、インターネットサービスである Amazon の話にも触れ、Amazon のレコメンデーションは精巧だとした上で、「興味のないものに出会えない仕組み」だと批判した。人は興味のなかったものとの出会いによって変わっていくのだと安田氏は語る。これはフィルターバブルの話ではもちろん、多くの情報社会論者がさまざまな文脈から指摘していることである。

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この話を聞いて、デザインサイエンスの提唱者であるバックミンスター・フラー(Richard Buckminster Fuller)が、「興味を教えることはできない。興味は自分自身で『発電』するしかない」と語っていたことを思い出した。そして、この「発電」の鍵は、興味のなかったものとの出会い(=セレンディピティ)が握っている。欲しいものに最短最速で辿りつく便利さは、人びとから「好奇心」を奪ってしまったのかもしれない。

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*1 人間中心設計の観点から製品・サービスを使う人々のゴール=目的に焦点をあてて、それが達成できるデザインを行うこと。

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誰でもない他者への気づかい

終盤のパネルディスカッションでは、さまざまなトピックが議題に上がったが、特に印象的だったのは「思いやり」「他者」といったキーワードである。
石川氏がパネルディスカッションの冒頭で指摘した、「霊長類の中で人間だけが『見知らぬ他人に餌を与える』という能力がある。人間のウェルビーイングを検討する場合には、その『他者への思いやり(Compassion)』こそが重要なのではないか」、という発言から議論は広がった。さらに、「思いやり」 において重要なのは、けっして自分だけでは完結しないという点である。石川氏は「思いやりのためには必ず『他者』が存在する必要がある」と続けた。
その話の流れから、ドミニク・チェン氏は「コミュニティの多くは目的がプリセットされているが、芝の家には目的がない。利害が一致する人が出会うことと、無目的に人が出会うことはまるで違う。」と語った。確かに、金の切れ目が縁の切れ目というように、利害の一致のみで人が繋がることには高いリスクがあるだろう。
「他者」と言ってもすぐ隣にいる他人のことだけを指すわけではない。芝の家や寺院での活動は、「死者」について考えるきっかけにもなっているらしい。そこには「死者」を含めたコミュニティが存在しているとのことだ。確かに「他者を思いやる」という行為は、「今」という時間軸でしか実行できないようなものではない。「祖先を思いやる」「子孫を思いやる」のように、見知らぬ他者に対して発動できるものであってこそ「思いやり」といえるだろう。
しかしこの点については難しい課題が残る。たとえば「東京の生活において思いやりを感じることは多いか」と聞かれれれば、「ノー」と答えざるを得ない。人が倒れていても見知らぬふりをすることがもはや都市のデフォルトになっている。ジャック・ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan)の言うところの「象徴界」はすでに失墜している。そのような時代において、どう「超越」について考えるか、ウェルビーイングの議論はそういった哲学的な大きな課題を抱えているように思う。

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また、この「他者を思いやる」という行為についてどう情報技術で支援することができるのかは、これから検討することとなるだろう。しかし、まず、キックオフシンポジウムでここまで話が広がったことについて、大きな価値があると言える。なぜなら、情報技術についての話の多くはアクチュアルな問題にばかり向き合う事が多く、このような抽象的な話になることは少ないからだ。ようやくそういう話ができるようになったと単純に評価されるべきであろう。資本主義とは別の軸で情報技術について考えることは非常に重要なことである。
しかし、現実的実践的短期的評価ばかりを求められる今の時代においてこの活動は困難も多いことだろう。しかし、このような研究会の存在がカウンターとなり、社会全体としてバランスが取れればそれで良いのだとも思う。

最後に平等院の住職である神居文彰氏による総括で、シンポジウムは幕を閉じた。宗教嫌いのお墓好きという日本人の特性を持ち出しつつ、日本人には世界でも類を見ないくらいに来世について考える能力があると語った。この日本人的時間感覚は、「他者」について考える上で重要な観点になるだろう。
神居氏は同時に十戒(Ten Commandments)のようなものの必要性についても訴えていた。十戒のようなものの存在が「他者を思いやる」行為を支えることができるどうかはまだわからない。しかし、ウェルビーイングのキーワードにもなっている「自律性」のためにはまず、「どの視点から自らを律するのか」を明らかにしなければならないことは確かである。

プロジェクトの意義と提言

昨今、情報技術界隈では「デザイン×ビジネス」という議論が増えていた。それはそれで大変結構なことだが、同時に疑問も感じていた。デザインが資本主義に飲み込まれてしまうことだけは、断固拒否し続けなければならないと思っていたからだ。その状況をどちらかと言うと悲観的に見ていた筆者にとってこのシンポジウムの存在は大変な救いとなった。資本主義を越えた議論をできる場所こそが必要だと思っている。そうした意味で、この研究会の存在そのものをまず支持したい。
一つ気になったのは、この研究会のメンバーに哲学者がいなかったことだ。もちろんドミニク・チェン氏などは哲学者との関わりも多く、哲学の素地もあることだろう。しかし、まさに哲学の領域なのではないだろうかという話が多かったことを振り返ると、哲学の専門家がメンバーとして在籍していても良いのではないかと感じた。このシンポジウムで語られていたことは、まさにルソーが、カントが、ニーチェが語っていたことではなかっただろうか。

キックオフ的なシンポジウムということもあり、多少発散した議論になった印象は否めない。しかし、だからこそ、抽象的で本質的な課題も炙り出せたのではないかとも思う。
まだまだ課題は山積みだが、情報技術の業界でこのような議論ができるようになったことを、まずは大いに歓迎したい。

amu

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