EVENT REPORT

若林恵とドミニク・チェン、読んでいない本について語る 3/3

【ゲスト】若林恵、ドミニク・チェン

【聞き手】千々和淳

EVENT REPORT

若林恵とドミニク・チェン、読んでいない本について語る 3/3

【ゲスト】若林恵、ドミニク・チェン

【聞き手】千々和淳

2016年7月に開催した「恵比寿 BOOK CAMP」。期間中のイベントとして、『WIRED』日本版編集長の若林恵さんと、起業家・情報学研究者として活躍されているドミニク・チェンさんをお招きし、読みたいけれどまだ読んでいない本への期待や読みたい理由を語るーー「未ブリオバトル」を行いました。2016年7月29日に行われたイベントの様子を、3回に分けてお送りします。

※このイベントは2016年7月に行われたものです。

OVERVIEW

2016.07.29(金)

ゲスト:
若林恵(『WIRED』日本版 編集長)、ドミニク・チェン(株式会社ディヴィデュアル共同創業取締役)
聞き手:
千々和淳(amuコンテンツディレクター)

INDEX

  1. いま文学をどのように読めばいいのか フランコ・モレッティ『遠読』
  2. 経緯を含めて評価する
  3. 作家の社会性と脱社会性
  4. 科学と経済の関係
  5. 書く力は、読む力である

いま文学をどのように読めばいいのか フランコ・モレッティ『遠読』

(この記事は1/32/3のつづきです)

千々和:では、チャレンジャーの方、お願いします。

チャレンジャー:最近、『遠読』(みすず書房)という本が出ていて、Amazon のあらすじによると、文学をシステム的にとらえている本で、文学史の中の特定の本をコンピューターで解析し、精読することで、すべての文学を理解できるのではないかという探求の本です。これは人工知能に近い本かもしれないです。
以前、『大学教授のように本を読む方法』という本に出会いました。タイトルそのままな話で、大学教授が、文学のどういうところに注目して読んでいるのかということについて書いてあります。たとえば、『老人と海』は、単なる老人と魚が戦う話ではなくて、実はキリストと復活を表している話で、それを一カ所一カ所の表現から読み解いていく。小説で勝負できる人は、単に表面的な知識や構成ではなくて、自分なりの世界観があって、俺からみるとこうみえるんだということを語れる人なんです。それを作品として語ることで周りの人をひきつけていったり、あるいは議論をして高め合っていく。読者であるわれわれが、そういった作者の世界観について知るにはどうしても膨大な量の前提知識が必要で資料の値段も高かったりなど、いろんな高いコストが必要となりますが、この本はそういったコストをかけずに文学というものの裏にある世界観を示してくれる気がします。

ドミニク: 先月出たばかりの本ですね。説明を読むと、ダーウィン(Charles Darwin)の進化論とオーラーステイン(Immanuel Wallerstein)の世界システム理論……。

チャレンジャー:作家のように、独自の世界観を提示することに憧れがあります。こういうのを読んで自分なりの世界観をつくり上げることができればいいなと思います。

千々和:なるほど、ありがとうございます。お二人、どうでしょう?

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若林:たぶんおもしろいかな、と思うけど……俺が早稲田の学生のころ、構造分析という、文学を構造主義的に読み解くというのがすごく人気があった。作家論ではなくて、テキストで読み解くというアプローチ。あれは、最初はすげぇおもしろかったんだけど、しばらくして読んだら大したことないなと思った。つまり、それは「方法」を巡る問題なのかもしれない。
最近、ロラン・バルト(Roland Barthes)の最後の何年間かの講義録を解説した本を読んだんだけど、やっぱりロラン・バルトはいかに「方法」と対決した人かという描かれ方をされている。「方法」は「目的」をフェティッシュ化するものであり、そこに向かっていく道筋を一種のシステムとしてつくっちゃう。で、システムは制度であり、制度は抑圧的なものである。バルトはそこからすべからく逃げなくてはならないと考えていて、「方法」に対して「教養」を対置した。正確ではないけれど、バルトはある種の知識や情報が、暴力的に介入して来て交差し合う空間を「教養」と呼ぶ。そこにはある驚きみたいなことや新しいものに出会って呆然とするというようなことがある。俺はよくわかんないなって思いながら読んだんだけど。
前に出た、アジア的なものを捕まえようとして西洋的な方法を用いると、それ自体が制度化されているのでそこからすくい出されたものも制度的なものにならざるを得ないという話につながるのかもしれない。だから、今「方法」として文学を読むようことは意味があるのかなという気はする。そういったことを出さないといけない位、文学が意味を失っているものではあるんだろうとも思うんだけど。でも文学をある種の方法をもって再び立ち上げようということは本当に有効かどうかというのはわからないな。
文学はある時点からすげぇどうでもいいものになってるじゃない。かつてサルトルとボーボワール(Simone de Beauvoir)が出たときはすげぇフィーバーしたわけじゃない。それくらいの社会的インパクトを持っていた。当時は文学者に人びとが期待するなにかがあったけど、今はほぼなにも期待してないわけでしょ。文学が、制度的な教養でしかなくなっていることはあるかもしれない。そこにどうやってアクチュアリティを取り戻すかということは、文学としては重要な問題だって気はするけどね。

千々和: 確かに文学を取り囲む環境って変わってしまったと思いますが、チャレンジャーの方はどうですか?

チャレンジャー:かなり感じます。大学では教養をつけるという意味で古い時代の文学を読んでみるということはあるし、教授はたくさんいるんですが生徒で読みたがる人はあまりいない。未来をつくる人、担う人があまり関心を持っていない気はします。

千々和:文学それ自体が過去のものという枠組みに入ってしまうんですかね。

経緯を含めて評価する

ドミニク:ちょうど、今の話に近いことを……僕が会社を立ち上げたときのプロダクトって、アートプロジェクトだったんです。キーボードで文章タイプした記録をつけて、再生できる、いわゆるキーボードロギングを文学っぽくした感じです。恵比寿の会場で3ヵ月間、小説家の舞城王太郎さんに書いているプロセスをすべて公開してくださいと依頼しました。全部再生すると100時間以上かかるので、2〜5倍速で再生してみてみると、どういう風に小説を組み立てているのかということがわかります。このデータに東大で計量的文学研究をやっている工藤彰さんという研究者が興味を持ってくれました。彼は、村上春樹の全文章を計量してどういう構造的な特徴があるのかという、モダンな方法で文学を分析をしている人なんですね。たとえば構造分けしたときに、導入にはどのくらい時間をかけているのか、登場人物の名前を何回変えているのか、全体のリズムはどの時点で一番スパークするのかとか……プロフェッショナルな文学の書き手の頭の中でなにが起きているのか、ということに着目した論文を書かれている人です。これは『認知科学』Vol.22 No.4 (Dec.2015)という学会誌に載って、関係者の間ではエポックメイキングだと評価されました。だから、視座の持ち方しだいであって、バルトは、「フェティッシュに目的化させてしまう方法」の限界をいち早く察知していたのではないか。しかし、今の時代はテクノロジーを使って定量化した瞬間に大事なものが消えてしまうという一派と、それはそうなんだけどデータを取らない限りはいつまでたってもブラックボックスだよねという一派に、二分されている気がするんです。僕はどちらかというと後者で、芸術空間の豊かさをすべて再現も定量評価もできないけれど、たとえば若林さんという人間が生きた証を、100年後、200年後にも伝わるようにするためには、ただ紙に書く以上のなにかを記録できるかもしれないと考える。それができることによって時間を超えた文化のリミックスが起これば、人間の生きた記録の「無駄死に」は減ると思うんです。いろんな人が、いろんなことを考えていると思うけれど、さっきの建築の人脈図じゃないけど、結局スターシステムにあがってきて結節点になる人が代理表象するしかない世界じゃないですか。今これだけインターネットが普及しても、いまだにスターシステムが強い。こういうイベントだって登壇者が2名くらいいて、後は聴講しているという形式になっている。でもそうじゃない物事の、集団的なコミュニケーションやクリエーションは技術的には可能なわけです。
あとは我々がどう価値を認めるか。機械が出したからこういう価値でしょというのはある種の知的怠慢で、なにも自分で決めていないわけです。こういう価値を評価したいから、こういうアルゴリズムをつくったということが、大事だと思う。たとえばアメリカだと人間がどう感じて、どう評価して、それをみて、受けたことによってどう人の心が活性化されるかということを大真面目に研究するアフェクティブ・コンピューティングとかポジティブ・コンピューティングというインタラクションの分野が出て来ている。僕はその辺りにすごく希望を抱いている。この本がどちらに属するかはわからないけど(笑)。

若林:俺はチェン君の言った2つの立場でいえば、わりと前者に近い。まず作家がこういったことになぜ選ばれるんだということにそもそもひっかかるところがある。というのは、そこでは作家が偉いものだと前提にしているわけじゃない。でも社会的にはそんな前提も認識も期待もない。それなのに、作家は偉いという前提でそれをコンピューティングにかけると価値が出てくるよねという話はちょっとわかんないよなって思う。

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ドミニク:でも、うまいこと評価する姿勢もあるとして、僕がそういった技術が進んだらいろんな意味でおもしろいなと思うのは、プロの作家たちが実は大したことを言っているわけでもないのに評価されている、ということが明るみになるんじゃないかということです。それは社会的な価値の転換だと思う。たとえば今オリンピックのエンブレムの問題でありとあらゆる事実が透明になっていったり、ウィキリークスで米民主党の全国委員会のメールがロシアによって暴露されたりした。あらゆることがファクトとして表出して、我々はファクトとしてしか評価できていない。佐野研二郎さんのロゴも最終的には別のなにかにそっくりだったとしてとどめを刺されたけれど、彼らのデザインプロセスも、細かく履歴をみることのできるソフトウェア であるGitのようなテクノロジーを使えば、もしかしたらすごく真摯なデザインプロセスを経てああいう形になったということが分かったのかもしれない。プロセスを非専門家にもわかりやすい形で可視化することで、ファクトだけでなくプロセスも含めて評価できるように、僕たちコンピュータアーキテクトだったりがやっていかないといけないと思う。複雑なものはただ複雑なままだと永遠にファクトとしてしか評価されない。でも本当は、若林さんがさっきおっしゃっていたように「経緯がある」ということですよね。それは人類の歴史のプロセスかもしれないですし、デザインをするということのプロセスかもしれない。そのプロセスが、真摯なものなのかあるいは怠慢なのか、ということを評価できてはじめて本当の評価に近づけるんじゃないかと思います。

作家の社会性と脱社会性

若林:なるほど。俺は、去年カズオ・イシグロという人をインタビューしたんです。彼は10年ぶりくらいに本を出して、内容の出来不出来は別にしても、10年間1本の小説のことを考え続けたということはやっぱり半端ねぇなと思った。”The Buried Giant”が原題の『忘れられた巨人』という作品です。カズオ・イシグロはおもしろい小説のつくり方をしていて、まず書きたいテーマがある。たとえばその前の『私を離さないで』は、「私の未来は明るい」と「それがもう終わるであろう」というのが同時に起きたときに、人はどうなるのかというテーマを書きたいと思った。で、それを書くためにどういう舞台設定にしたらいいかという、ロケハンのようなことをやって、違う舞台と設定で3回書いて没にするということをやったんだって。結局は近未来を舞台にして最後まで書いた。この『忘れられた巨人』は、ある共同体が「なにを記憶したか」と「なにを記憶から抹殺するか」をどう決めるかということが書きたいテーマだったわけ。で、この作品でも試行錯誤して結局舞台は5世紀のイギリスになる。どんな話かといえば、いろんな世界のあらゆる国なり、共同体には掘り起こしてはいけない記憶があって、それはたとえば日本だと中国での残虐行為だったり、タブーは全世界的なものとしてある。そして、現代社会はそういうものが噴出している状況です。
彼のように、10年のスパンの中で現実に対応させる形ではなく、一つのテーマを突き詰めていき、結果それがある種の世界的事象に対応するというのはすごいなと思う。10年かけて一人の作家が世界を創造する、創出するわけじゃない。それは迫力のある仕事だなと思う。それが故にカズオ・イシグロは世界的に評価されるんだろうな。
作家は、社会的な存在だけどなにか特殊な、社会とは別の視点から社会をみることができるということにおいて特権的な存在であって、それはとても重要なことだと思う。日本はそういうことに対しての社会的リスペクトが目減りしていっている気がする。でも本来作家はそういうものだと改めて気がついて、感動したんだけどね。文学って社会にとってなんの意味があるのかは自分にとって自明ではないんだけど、意味がありそうだなという気がする。

ドミニク:文学に限らずアートも、発注芸術になってきていると思うんです。この間アーティストの日比野克彦さんと対談したときに、「発注されてもないのに作られるもの」にこそ生命的な動機が宿るというような話をしたんです。僕からしたらそれは当たり前だと思っていたんですが、もし今の僕よりも若い人がそもそも文学や芸術をそういう風にとらえられていないのだとしたら、それは社会的な通念として消費されるものとか、オーダーがあって初めてつくられるものだと考えているのかなと最近思うんです。それがいい悪いではないのだけど……やっぱりだれから依頼をされなくてもやるということは結構パワーのいることなんですよ。僕も、フランスのパリのテロの遺族の方の手紙の翻訳をだれかに頼まれたわけではなくて、NHK の収録が終わった夜中の12時に車の中でみていて「これは訳さなきゃ」と思い、朝の5時までひたすら訳した。でもそういうことをやってみると普段接することすらできないような人たちに結構届くんだなって思った。仕事の大小の差はあれどそういうことは誰にでもある。カズオ・イシグロみたいに10年をかけることができる人はそうそういないと思いますけどね。社会から要請されていないことをすることで、自分だけに見えてくるものはある。だから先ほどの若林さんの「計測する」というマインドセットが過度に社会に接続させていて、文学とはそもそもそういうものではないのではないかという批判は、甘んじて受けるべきだなと僕は反省しました。

科学と経済の関係

若林:俺はカズオ・イシグロにインタビューしたときにあなたのやっていることは言葉を使った科学じゃないですか、と言ったらすごく怒られた。「なに言ってんだ、これはアートだ」と言われて、驚いたわけ。俺はいい意味で言ったつもりだったんだけどね。
別にカズオ・イシグロがそう言っていたわけではないんだけど、科学は基本的に発注仕事だというのが最近の俺のドグマなんだよね。これ言うとマジで怒られるんだけど。
去年うちでやった AI のカンファレンスで、ある宇宙物理が専門の先生が、自分が学生だったころは宇宙物理か、原子力をやるのが花形だったけど、今自分が学生だったら、人工知能をやるなぁと言っていた。でも仏文に身を投じていた俺からすると、生まれ変わっても仏文だよ! と思う。人工知能を選ぶのはトレンドじゃん、しかもそこには金が落ちてくるという経済性の話だよ。俺はドン引きしたわけ。
でも、そもそも文学は一人でできるけど、科学は大学や企業から金をもらわないとできないことに気付いたんだよね。それ以外に道がほぼない。ドロップアウトして科学を続けるのはきわめて困難なんだよね。

ドミニク:これに補足して空海のとった戦術について話します。彼は中国に渡り密教の教えを体得して、華厳密教の8番目の法王になった。で、その後に日本という当時としては田舎に戻って来て、自分には自分の仕事があって、だれにも頼まれたり発注されていないけど、勝手に密教というものを完成させようとする。そうしたことはなかなか理解されないのだけど、彼は周囲に対して灌頂のようなセレモニーをある種のインターフェースとしてデザインして、これでスポンサーになってよという一種のバーターをやったわけです。で、生々しい話ですがアカデミアでもその手法がうまくいけば僕は有効だと思っていて、これは人を騙すとか国を騙すということではなくて、100歩先のことをやるからお金をくださいというのはやっぱり、お金を出す側からしたら意味がわからない。100歩先をやっているんだけど、0.5歩先にはこんないいことがありますよと言うことは、過度な「発注性」を生んでしまうとは思わない。ちゃんと私のやってることとあなたのやってることはつながっていると伝えることは重要です。

若林:原発の騒ぎがあったときに、だれが言っていることが正しいのか本当にわからないことがあって、みんながどこかの権益に紐づいているようにしかみえなかった。以前、科学ジャーナリストの吉成真由美さんにアメリカだとチョムスキー(Avram Noam Chomsky)が尊敬されているのはなぜですかと聞いたら、科学の徒であることは前提として党派から中立であると受け入れられているからじゃないかと言った。「科学の範疇で語られることは真理である」という市民との契約とまではいかないけど、コンセンサスがあるんじゃないかということなんです。すごく好きじゃないなと思ったのは、真理の探究といいながら実はトレンドを追っかけているだけで、都合よく相手によってやることを変えていて、お金が出てくるところに対してはうまくやればいいと思うけど、なんかなぁと思う。

ドミニク:『WIRED』Vol.23の会社特集で感動したのが、2人のロースクールの卒業生が PBC(パブリック・ベネフィット・コーポレーション)を考えた。というのは、株式会社だと短期的な利益追求がどうしても宿命として与えられてしまうので、一般通念的にはそれに反することはすぐ縮小せざるを得ないという摂理を受け入れがちです。だけど、そうじゃないソーシャルに good なことを植え付ける会社の遺伝子みたいなものを、地道に制度をつくったりして受け入れる人が出てきたんですね。大きな会社も、PBC に転換することをやりはじめている。その直後に長期的な株式保有を優遇する株式市場の構想もニュースになっていました。そういう本当の価値を考えたり、それをやるインセンティブがあれば参加するという人が増えてきている。ただトレンドに乗っかるだけの科学やテクノロジーをやってない人はたくさんいると思う。

若林:そうなんだよね。そういう人たちが損をするんだろうなという気もする。難しいよね、科学って金がかかるし、予算を取りにいかないといけないところもある。ほかに方法がないのでみんなトレンドを追いかけざるを得ないというのはわかるんだけど……いっそちゃんと企業体にしちゃえばいいじゃんという話かもしれない。

千々和:チャレンジャーのお話によって、文学の比較対照として科学の話になりましたね。

長谷川:意見を言う場じゃないと思うのですが、発言してもいいでしょうか。コンセントの長谷川敦士と申します。僕はもともと物理をやっていたので、今の話のサイエンスのバックグラウンドを持っていて、しかも、スーパーカミオカンデという大産業としての物理をやっていたので、ドン引きするくらいのビジネスなところと、一番小さい原子物理というピュアなところと両方ある現場に修士までいました。サイエンスやアートは本当の意味ではどちらもすごくピュアです。興味があることをやりたいという思いがある。その意味で、カズオ・イシグロが10年かけてやっていたことをサイエンスもやっているんです。10年かけてモデルを考えているサイエンティストはいっぱいいて、あるモデルをつくってはだめだと棄却して……と繰り返しているんです。で、サイエンティストはよくロジカルだといわれますが、考える過程でだれもロジカルに考えてはいない。この分野に身を置くためにはトレーニングとして数学が使いこなせるようにならないとだめですが、それはアーティストが新しい表現を考えるために既存のペインティングをやりまくるのと一緒で、手癖をつけてからその先をみないといけないからです。サイエンスは基本的には思いつくかつかないかという世界で、思いついたモデルを他人に説明するときには数学やロジックというフォーマットで階段をつくる。アーティストは自分のみたものや作品で表現できますが、サイエンスのモデルは自分のみたものまでほかの人も辿り着けるようにロジックで階段をつくらなきゃいけない。けれども、ロジックで100%考えているわけではないんです。そういう意味で先ほどお二人が話されていた、発注じゃない方のアートとピュアなサイエンスは本質的には一緒で、向いている対象が人間の内なる表現なのか自然科学なのかという違いです。それが人のためという話になると、デザインであったりエンジニアリングであったりする。実は AI にも2つの系統があって、エンジニアリングとしての AI は商売になる話なんですが、ピュアなサイエンスとしての AI の興味は、それこそ僕の大ボスだった池上高志さんが今やっている、新しい生命体としての AI です。社会に対して身振りしていくとなると、それはエンジニアにおけるサイエンスで、デザインにおけるアートと一緒なところがある。で、社会がそっちでないとサイエンスやアートを養えなくなっている。

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若林:わかるんですが……どう言ったらいいのかな。たとえば小保方晴子さんの話って科学と関係ないじゃないですか。お金の話なんです。ああいうものがふつうに出てきちゃうのはわりと構造的な問題なんだろうと。研究費をとるために派手な成果が必要な中で、ある種頭がおかしくなってくるような環境はどうなのかと思う。たとえば、ポストドクターの勉強会に呼ばれると、「私たちはすごく地味な研究をやっていて、だれにも評価されない。研究費がどんどん削られていってどうすればいいんでしょうか。私たちの人生なんとかしてください」という話をされる。科学はそういう人たちの人生の面倒はみれなくて、面倒をみてもらうなら派手なことをやらないといけない。そこは非常に経済原理によって動いている空間にみえる。俺は純粋数学の人は詩人と同じくらい偉いと思っていて、いいじゃん、その人たちには金を払ってやれよと思う。だけど、科学者をみていると、この人たちの人生なんなんだろうなと思うことがあって、それは文学者だって同じで、食べるために売文家業はやる。そこと同じような話なのかと思うんだけど。

長谷川:程度問題ですよね。

若林:金の問題で、小保方さんの話は結構悲惨だなと思ったし、ああいうことは構造的な問題としてあると思う。
科学をディスりたいわけじゃなくて、アートが社会の中でどういう機能を持たなきゃいけないのか、どういうものとしてアーティストはリスペクトされなきゃならないのかということに対するコンセンサスが失われているのと同じように、科学が社会の中で経済指標としてしか判断されないものになっている。特に若い子がそれに紐づいてしか生きていく道をみることができないという風になっているのは社会としては問題だと思う。社会が科学を本質的な意味において価値付けできないということは、社会にとってロスだろうと。それは、社会のせいじゃなくて実は科学者自身のせいじゃないかと俺は思う。自分たちでそれを証明できなかった、じゃあだれがそれをするんですかねということ。科学の価値をもうすこし広い意味で考えないといけない。

書く力は、読む力である

ドミニク:巨大な問題に立ち向かうような感じですね。先ほどチャレンジャーの方が、文学に引き戻してくれてそこで思ったことを言うと……僕は、今さまざまなことがどんどん透明化していき、どんどんファクト化する、そのことによって右往左往する社会が現出されていると思っているのですが、他方で希望を持っているのは、「本当のこと」と僕は呼んでいるのですが……「本当のこと」もより伝わりやすくなってきているのかなと思います。まだうまく言語化できていないのですが、ある程度本をいっぱい読んでいると、文章を読んだときに書き手が楽しんで書いているのか、しかめっ面やつまらない顔をして書いているのか、わかると思うんです。「わかると思うんです」というくらいでまだエビデンスもなにもない話なんですが、それは人間の受容感覚だけでなく、ある種のクリエイティビティだと思うんです。IT に規定されている社会は、情報を摂取する、受け取る力が強すぎてしまっていて、たとえばこういう場でチャレンジするような、エクスプレス(表現)すること、それを人間が聞いてくれてフィードバックしてくれるということが重要だと思うんです。僕はフィルムアート社さんで単著デビューさせていただいたときに、現編集長の薮崎今日子さんというすばらしい編集者についていただきました。僕に対してもっと出せよ、もっといけるだろ、みたいなスピリットとガッツのある方で、こちらからの要望にも限界までプッシュしてくれた。最初は藪崎さんに自分の中のアイデアを絞り出してもらっていましたが、そのうち自分で同じ表現や考えを反復するようになるんです。最初は反復なので自分自身で飽きるんだけど、そこから一周すると、醤油の上澄みみたいな感じで、これが俺なんだ、嘘偽りない俺なんだというものがわかってくる。自由になれる感じがする。たぶんそれは幸運な体験なんだと思う。インターネットが表現の民主主義化を標榜するならば、そういうディープな表現体験こそを生むように、我々がものを書いたり発信したりするツールをつくっていかなきゃいけない。これが自分のミッションだと思うんです。Twitter で今感じることをつぶやくことで、なんか民主主義化したねというのは、能天気にもほどがあると思います。

若林:そうだね。俺が最近よく思うのは、うちの編集部の若いスタッフが書いた原稿を読むと、へたくそだし論旨が途中で曲がってる。結局原稿を書けないんだよね。でも最近気付いたのは、こいつらは読めないんだなと。自分の文章は一番読むのがむずかしいっちゃむずかしいのだけど……。書く力というのは、つまり読む力の問題なんだと思う。書く訓練を受ける機会はあっても、読み方を学んだり読む力を鍛えたりするような読む訓練は、ほぼ受けない。たとえば優秀なミュージシャンは例外なく聞くことの達人なんだよね。俺の知っているジャズミュージシャンは、ライブで5人のメンバーが出した音を全部記憶できるそう。それはある種、特殊な才能なんだけど、実は演奏する能力よりも聞く能力の方が音楽家としての価値をつくっているんだろうという気がするんだよね。受動的だと思われがちな「読む」や「聞く」ということこそが実は本質的なことかもしれない。読むものはなんでもよくて、どう読めるかということがこっちの側の問題としてある。俺は『土曜ワイド劇場』がすごく好きで、クソみたいなんだけど結構楽しめる。それは俺の度量だろうと思う。たとえば演じている東幹久の人生を想ったり、メタなレベルでどうやってつくられているのかなと考えたり、いくらでも考えられる要素はある。だから、いい情報を入れれば自分の頭がよくなるといわけではない。

ドミニク:ちょうど同じようなことを Dotplace というメディアで、「読むことは書くことである」というタイトルで20回くらいの連載を書いてました。発達心理の領域でドナルド・ショーン(Donald Alan Schön)がリフレクション・オン・アクション(Reflection-on-action)とリフレクション・イン・アクション(Reflection-in-action)という概念を区別している。たとえば建築家がなにかをスケッチしているときは、リフレクション・イン・アクションなんです。アクションしているときに、線を書いているときに、これはいい線だ、悪い線だということがミリセカンド単位でフィードバックされる。若林さんが言った通りです。だから、読みながら書いているとしかいいようがない状態が、一番おもしろい創造性なんだと思います。読む行為からすでに書いているんですよね。「〇〇」と書いてあるのに鳥肌がたつとか、おもしろいと感じるとかは言語化以前の段階です。そういった、言葉が浮上する前の自分の特性があるとしたら、もう歩いて息してるだけでものすごくクリエイションしているわけなんです。生きて、つねにアウトプットされている。そういうことを自分の本に書いていたら松岡正剛さんに、すごくほめられました(笑)。

若林:それはすごい。

千々和:お二人から読むことや聞くことについて最後にふさわしいお話が聞けたと思います。今回「未ブリオバトル」は第1回目ですが、一つ考えているのがお二人が今日あげた本を実際読んでもらって、ビブリオバトルできたらなと思います。

ドミニク:たしかに。

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若林:俺は読まないよ。言っとくけど。ここまで読まないできたのには理由がある。読む理由があるまでは読まない。20年寝かしたものに手を付けるというのは結構な理由がいる。みんな Amazon でポチポチ買えるのってほんとはよくない。

千々和:というところで、じゃあビブリオバトルはむずかしいと思うんですけど、またこういった回をやりたいなと思ってます。皆さん長時間ありがとうございました。

(2016年7月29日@amu)

今回のレポートvol.3に登場した本の一覧です。ぜひ参考にしてみてください。

『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』 著/フランコ・モレッティ 、訳/秋草俊一郎、今井亮一、落合一樹、高橋知之(2016年)
『大学教授のように本を読む方法』 著/トーマス・C. フォスター 、訳/矢倉尚子(2009年)
『老人と海』 アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ(1952年)
『わたしを離さないで』 著/カズオ・イシグロ、訳/土屋政雄(2006年)
『忘れられた巨人』 著/カズオ・イシグロ、訳/土屋政雄(2015年)

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