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いま、「グラデーション」でものごとをつなぐ意味 後半――早稲田合同作品展示「Grayscale」によせて

【インタビュイー】草原真知子、橋田 朋子、ドミニク・チェン

【インタビュアー】千々和淳

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いま、「グラデーション」でものごとをつなぐ意味 後半――早稲田合同作品展示「Grayscale」によせて

【インタビュイー】草原真知子、橋田 朋子、ドミニク・チェン

【インタビュアー】千々和淳

早稲田大学の文化構想学部と基幹理工学部の3つの研究室が “Grayscale” をテーマに現代の様々な事象の間をメディアアートにより表現する共同展示がはじまる。デジタルテクノロジーの進化で1つの事象が白黒に分断されつつある世界の狭間を、“Grayscale” としてメディアアートにより表現する。草原真知子教授、橋田朋子准教授、ドミニク・チェン准教授が、“Grayscale”への考えや展示の意味について語ったインタビュー後半を公開。

INDEX

  1. ありえたかもしれない今を発明する
  2. グラデーション思考から生まれるもの
  3. グレーな世界で「選択」が変わる

ありえたかもしれない今を発明する

「いま、『グラデーション』でものごとをつなぐ意味 前半」はこちら

千々和:この情報技術社会において「グレースケール」という視点が提起するものに関してはいかがでしょうか。

ドミニク:ここ1〜2年、僕自身いろいろな場所で研究の議論を交わし、プロジェクトを立ち上げる中で、国際会議のような場に行くと「フィルターバブル*1」という言葉が国際共通語のように使われるようになっています。インターネット社会が成熟して、誰でもスマホを使って情報発信ができるようになったのだけど、その姿っていうのは90年代のインターネット黎明期に夢見られていたような、互いに書き・読み合う文化が花開くだろうという思いとは違ってきてるなという実感があって。使うデバイスがPCからスマホに移っていく中で誰もが Twitter や Instagram などを用いてカジュアルに情報発信ができるようになった一方、まとまった情報を世の中にしっかりと発信する力は相対的に弱まっていますよね。フィルターバブルという概念はイーライ・パリサーが提唱してから問題とされてきたけど、アメリカでは2017年のワードオブザイヤーに選ばれたり、いまだ解決には至っていない、というか年々深まってしまっている。意図しない形であれど、テクノロジーがそこに加担してしまっているんじゃないかという懸念もあります。でも、IT産業の世界でも、このフィルターバブルが強まる中でも正気を保とうというか、ふと「自分たちはなぜこの活動をしているのだろう?」と立ち止まり、振り返る人たちも増えてきていますし、単純に「儲かる」「効率性が上がる」といったことに結びつく、今まで世間で信頼されてきた経済的なサクセスストーリーも音を立てて崩れてきているんじゃないかっていう感覚が生まれています。結局、インターネット社会が成熟する過程で可視化された人々の多様性がきちんと接続されていないんですよね。それはアメリカの話だけじゃなく、日本でもヘイトスピーチやセクシャルマイノリティについて議論されるようになって、接続されていなかった多様性の差異がまさに可視化されてきていますが、そこをどうブリッジしていくか、というのは切実に思う問題ですね。

草原:私は15年ほど前からデバイスアートというコンセプトの理論化に取り組んでいるのですが、目的のひとつは「技術をブラックボックス化しないため」。エンジニアにとっては、工業製品や装置にしてもサービスにしても、ユーザーに勝手にいじられないためにも技術はブラックボックスにしておきたいものですが、アーティストというのはそのブラックボックス化された情報や技術を暴くことができるんですよね。最近、授業にゲスト講師としてお招きしたアニメーション監督の瀬下寛之さんがゲームやアニメーション制作に人工知能を使う話をしてくださったんだけど、「人工知能といったらなにを思い浮かべますか」と学生に聞いても検索や Siri という答えが出てこないんです。みんなそれらをAIだと認識していない。AIに職を奪われるとかAIが怖いとか言う学生が多いのに、AIを組み込んだGoogleの検索フィルターを通して出てきたものをすんなり受け容れてしまう。フィルターを通ったものが絶対的なのではなく、本当に自分が納得できるものはその外にあるかもしれない。フィルターを通して出てきたものを単に受け入れていたら、それこそブラックボックスに操られちゃうんじゃないですかね。

ドミニク:情報のフィルターに多様性がどんどん収縮・収束していって、単純なものに還元されるという現象に感じますね。

草原:中国のフィルターと日本のフィルターは違うだろうし、個人的なフィルターもあるだろうし、たとえば、同じ技術を使ったとしても、工学的な装置に求められるデザインとアーティストが表現するものってまったく違うし。工学的なデザインに「ああなるかもしれないけれど、こうなるかもしれない」とか「この装置の役目はあなたが決めてください」といったグレーな表現は許されない。それはグレースケールという考え方の対極ですよね。

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ドミニク:工学に関してはデザインでも論文でもあそびや隙間、余白といった類いのものはなかなか許容されないですからね(笑)

橋田:論文の体系が、西洋の学術体系に則ったものですからね。私はデバイスのパワーが怖いなとずっと感じています。10年前は情報が絶えず取得できるデバイスを持ち歩いていなかったし、そこまで情報を追わなかったですよね。でも今は新たなデバイスにもあっという間に慣れて、それがなかった世界など考えられないような感覚になってしまうほど、人の知覚や認知には可塑性があります。そういうことを意識していないから柔軟に変化していける側面もあると思うのですが、今までデバイスにまったく触れないいわば「0」の状態だった人が、無自覚のままデバイスを当たり前に使うようになって「1」の状態になる。その0から1の間に、デバイスは私たちにとって本来どういう形であるべきかやそうした情報の取得方法でいいのかなど、そういったディスカッションがほとんどないまま1になっていくのが怖いなと思ってしまいますね。だからこそ、一般的なプロダクトには乗らない様々なデバイスを作って、そこで0と1の二極化の考え方ではないあり方や考え方とか、すでに1の状態になっている人にその0と1の間にあるグラデーションに気づいてもらえるようなデバイスを作りたいと思っているんです。

ドミニク:そのお話で草原先生のメディア考古学の授業を思い出しました。いろいろなテクノロジーやデバイスの歴史を辿っていくと、カンブリア爆発のような時代もあり、もしかしたら今も生き残っていたかもしれない技術やデバイスの系統が見えるんですよね。そういうものがぷつっと途絶えた歴史を見て、このデバイスを現代に復活させたらどうなるのだろうかという想像を掻き立てられるし、僕たちはタイムマシンで過去に戻り、復活させ、現代に戻すということができるんです。工学系や企業のエンジニアリングの場では、すでに過去につくられたものを知らずに再度発明する時間とコストの無駄を「車輪の再発明」と表現して忌避されるのですが、あえてその再発明に取り組もうといったIAMASの「車輪の再発明プロジェクト」なども立ち上がっています。盲目的に合理性を追求するような発想だと辿り着かないような選択肢を増やすというか、その選択肢もただ増やして終わるというわけじゃなく、それだけ今目の前にある状況や選択肢が「one of them」にすぎないということに気づけると、個々人が社会に働きかけられるという能動性も高まる。学生たちがこれから社会に出て、ただ企業の歯車になるのではなく、何か新しいことをやろうと思ったら自分で新しいメディアの風景の一部分を作りはじめることができるのではないかと思いますね。今年大学教員になったばかりなのですこし気合いが入りすぎてるのかもしれませんけど(笑)。そういう能動的な姿勢で、新しい局面でも臆することのない若者が増えてくれればと思ってます。

草原:最近の議論として「進歩主義的な歴史観」はもはや無効だ、という方向になってますよね。今までは「進歩の結果、今がある」という考え方が主流で、「現在」はいわば必然の結果。ありえたかもしれない他のいろいろな可能性については切り捨てられてきた。でも、私自身は中学の頃からSFの愛読者だったせいか、科学や技術の歴史について直線的じゃない見方が根底にありました。

千々和:フィリップ・K・ディックの話で、パラレルな世界を夢想するのと似てますね。デバイスは結局のところビジネスのロジックの影響下にあると思うんですけど、それに対して今の学生さんたちにどんなことを望みますか?

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*1 フィルターバブル:検索エンジンで、ユーザー個人の情報、嗜好、過去の履歴等を学習して導かれた検索結果が個人の興味関心に著しく偏り、望まない情報を得られなくなることで視野を広げることが難しくなること。自身の作り出したフィルターに泡のように包まれ、思想が社会から分断されてしまうことを指す、イーライ・パリサーが同名の著書フィルターバブルで使った造語。

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グラデーション思考から生まれるもの

橋田:3つのゼミをまたいで出入りしている学生たちは工学的な発想にとらわれないデバイスを作ってくれると思ってますね。ただ、学科に入ったばかりの2年生がやりたいことを発表する授業があるんですけど、毎年出てくる技術が似てるんです。たとえば、いまだとみんな「ヘッドマウントディスプレイ」や「VR」、3〜4年前だと「プロジェクションマッピング」とかで。表現工学科という学科は、流行っている物事を批評的・批判的に見つつ新たなものを作り出したいという人材がくる学科だと思っていたのですが、皆批判せず素直に受け止めてしまっていて。私は早稲田に来て5年ほど経つのですが、その5年間入ってくる学生の傾向は変わらなかったので、その点に関してはずっと危機感を持っていますね。はじめはそうでも、卒業までに全員が独自の技術や方向性を持った人になってほしいと思っています。同じようなテクノロジーが好きと言っていた学生たちも、意識をガラリと変えて卒業していくので、研究や作品制作の過程でちゃんと学んで考えていく力を身につけることができるという実感はなんとなくできてきてはいるのですが。でも、どうして学生たちが同じ方向を向きがちなのか非常に不思議なんですけど、どうしてなんでしょうね?

草原:文系のいろいろな学科の学生が受講する300人規模の大きい授業でも、一昨年くらいは確かに「プロジェクションマッピングやりたい」っていう学生はけっこういましたね。「やりたいんだけど、どうやったらできるんでしょうか」って聞いてくる。流行り物に興味があるんですが、「自分は文系だから」自分たちではわかるわけない、できないと勝手に決めてしまっている学生が結構います。だから、AIやロボットの話をすると、授業が終わったあとに「今日は理系っぽい授業でわからなかった」という声が出たりする。はなから自分の可能性を閉じているんです。

千々和:ある意味、いまの社会状況がそういう分断を加速させているのもあるかもしれないですよね。

ドミニク:文系の天才というのは、タバコをいつも吸ってアル中でみたいな人がすごい文章を書ける、とか、ロボット工学者は酒もタバコもやらず趣味が数式を解くことみたいな近代的な天才のイメージってたしかにありましたが、それはものすごく旧いステレオタイプですよね。そして、結構な数の人たちがいまだそういうステレオタイプに毒されているのも事実です。2017年といえばVRだろうというところで止まってしまっているのも、単に情報の探り方、世界の多様さをまだ知らないんだと思います。橋田ゼミの学生たちを見ていると本当に素晴らしい情報収集力で、オリジナリティがあって、批評マインドのバランスも取れている。だから、橋田先生が感じられている危機感もトレーニング次第なのかなとも思います。

橋田:ひとたび学ぶと、学生の方が技術を使って自分でフレームワークを作っていて、情報への対応能力が高くてそれはそれでびっくりしているんですけどね。

ドミニク:3年生から4年生になる1年間でも、かなり進化がありますもんね。

草原:理系と文系の間にあるグレースケールに気づいて、できることの多さを感じ取ってもらいたいですね。

千々和:先生方のされている研究も、理系と文系の両極に寄らない隙間やあそびを大切にした、グラデーションの中にあるように思いました。こういったグレースケールに触れることで学生さんたちの中でなにが変わると思いますか?

ドミニク:文化構想学部では人文的な知識が豊富なところから、理系の技術的なところまで文系/理系の垣根なく突っ込んでいけたらというベクトルで考えているのですが、今回の「展示」という半ば強引に設定したフレームに最初は戸惑いつつも1度乗ってみて、そしてそのラインが走り出してくると、そのベクトルでも新しいものを十分作り出せることが自分たちでもわかってきて、それが周りに伝播していくわけです。作る理系と批評する文系と分けなくとも、両方とも1つのサイクルの側面なんだということを実際に体感してもらうのは大事ですね。講義で言葉で伝えても95%は伝わらないものですが、垣根はないということを理解できる環境で学んでもらうことが一番じゃないかなと思っています。

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草原:私のゼミではもともと前期後期で1作品ずつグループ制作をして発表するのですが、今回の場合、それぞれ自分の作りたいものがあったとき、それを「グレースケール」という視点から見たらどういう部分とその作品がつながってくるのかという別の分析が求められ、それがまた表現のきっかけになるんです。いつもはその作品を作ることでなにがしたいのかということを学生に聞くんだけど、今回はグレースケールという視点が提示されたことで「自分たちがやろうとしてることはなんなのか」という自問するきっかけが得られたことはすごくよかったですね。

千々和:確かに自分を見直す、フィードバックする視点としてのグレースケールっていうのはとてもいいですね。グラデーションでとらえると新たな意味づけができるということですね。

草原:今まで自分が持っていなかった視点に気づくことができるでしょうね。

グレーな世界で「選択」が変わる

橋田:実際にグレースケールをテーマに展示をやるにあたって、今回のテーマが決まってからそのグレースケールというテーマについてまた分析をしたんです。たとえば、人間にはその人に適した情報量があって、少なすぎても物足りないし、多すぎてもキャパオーバーで理解がむずかしい、という問題が発生しているんじゃないかという話になって。その場合、少なすぎるものには段階をつけるとか、具体的すぎるものは抽象化するとか、いくつも図を書いてグレースケールのレシピを作るのが学生たちにとっておもしろかったみたいです。それを考えた上で、作品を好きに発想してもらったのですが、普段ゼミで作品を作るときは必ずしも全員が同じテーマで作るわけではないので、今回は共通したテーマの中で技術のセオリーや社会問題とつながりそうなレシピを考えるのが楽しかったですね。この展示を見に来られた方も、ご自身でこういったグレースケールの視点を持ってものごとをブレークダウンさせて考えたら、自分が持つ課題の解決法の1つになるかもしれません。

千々和:ちょうどそのことを聞こうかなと思っていたのですが、この早稲田合同作品展示「Grayscale」に来ていただいた方にどのような影響を印象を与えられると思いますか?

草原:作品も、それを作るまでのストーリーもそうですが、「なにがいま問題なのか」ということをグレースケールを通して考えてもらいたい。作品という形に落とし込んだときの力、コンセプトだけじゃなく、意味っていうのをやっぱり感じていただきたいのかな。文系では伝統的にテキストでの説明が重視されがちですが、それだけじゃない伝え方というのはとても重要だと思うんですよね。

ドミニク:「解像度が上がる」という言い方がありますよね。英語では “Resolution” と言いますが、実は「分解能」という、より能動的な意味合いの訳語もあって。だから、視覚的な情報量が増えてより細かく見えるようになった情報を摂取するだけでなく、自分自身で世界の複雑にからまり合った情報を分解する能力、そういったものに自ら働きかけられることができるという気づきを、来てくださった方、特に若い人たちに感じてほしいなと思っています。そういう方々と一緒に、中長期的にオルタナティブな社会の流れを作れたら大きな喜びです。

千々和:今回の展示に来られた方は間違いなく「自分が選択すること・したことの意味は他人から与えられるものではない」と実感できる機会が増えるでしょうね。

橋田:世の中のあらゆる場面で選択肢が多すぎることは問題だと思っている学生もいました。その選択をもし機械が決めてくれたら、その問題は解決する。でも、もしその選択の結果に違和感があったら、「自分で選択すること」の意味を見つけるきっかけになる。もしかしたら、そういった選択への意志を試す踏み台のようなところに位置づければ、この展示の意味があるのかなと思いますね。。実際、そういう世界がきてしまったら大丈夫か?とも思うのですが。

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千々和:選択肢の多さは最初のフィルターバブルの話然り、いつも問題になりますよね。

ドミニク:橋田先生がおっしゃっていた「人によって適切な情報量は違う」というお話は、相対主義的な見方ですよね。一方向に合わせてしまうと世界全体がより複雑になってしまう。だから情報量はそれぞれのリアリティに基づいてパーソナライズされるべきかもしれない。リアリティのない普遍的な善悪の二元論になってしまうと、社会全体を一義的なものとして締め付けてしまう。グレーな世界という新しい「大きな物語」みたいなものを、少なくとも展示という小さな範囲でも感じることができて僕自身が勇気付けられましたし、周囲の人たちも勇気付けていきたいなと思います。

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